洗心洞箚記 / 卷下・第四十三條
太虛非空、卽春夏秋冬之氣、元亨利貞之理、徧布充滿焉、而著乎物則雖愚夫婦之心眼、猶視之而識之、未著於物、則大人君子不敢道眼見之、而默而知焉耳、默而知之理氣、則非愚夫婦心眼之所及也、然則非空乎、曰、非空矣、去人欲復天理、然後始知是言之非妄也、
新字:太虚非空、即春夏秋冬之気、元亨利貞之理、遍布充満焉、而著乎物則雖愚夫婦之心眼、猶視之而識之、未著於物、則大人君子不敢道眼見之、而黙而知焉耳、黙而知之理気、則非愚夫婦心眼之所及也、然則非空乎、曰、非空矣、去人欲復天理、然後始知是言之非妄也、
書き下し
太虚は空に非ず、即ち春夏秋冬の気、元亨利貞の理、徧く布き充満す。而して物に著るれば則ち愚夫婦の心眼と雖も、猶ほ之を視て之を識る。未だ物に著れざれば、則ち大人君子も敢へて眼に見ると道はずして、黙して知るのみ。黙して知るの理気は、則ち愚夫婦の心眼の及ぶ所に非ざるなり。然らば則ち空に非ずや。曰く、空に非ず。人欲を去り天理に復りて、然る後に始めて是の言の妄に非ざるを知るなり。
現代語訳
太虚は空っぽではない。春夏秋冬の気と、元亨利貞(『易経』乾卦の四徳)の理が、くまなく行き渡り満ちている。それが物に現れれば、愚かな庶民の心の眼でも、見て知ることができる。まだ物に現れていなければ、大人や君子でも目に見えるとは言わず、黙って知るだけである。黙って知る理と気は、愚かな庶民の心の眼の及ぶところではない。それなら空っぽではないのか。答える。空っぽではない。人欲を去って天理に立ち返ってはじめて、この言葉が偽りでないことがわかるのである。
解説
太虚は空無ではなく、春夏秋冬の気と元亨利貞の理が満ちたものだと説く条である。物に現れれば誰でも見えるが、まだ現れないものは君子でも黙して知るほかないという。中斎の太虚の説が老荘の無や仏教の空と疑われることへの答えであり、人欲を去って天理に復れば分かると、体験による確かめを求める。目に見える成果の手前に、まだ形にならない兆しや力が満ちているという見方は、数字にならないものを軽んじがちな今の仕事の見方を問い直させる。
この章句が説くこと
太虚理気天理人欲易経黙識
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