洗心洞箚記 / 卷下・第三十三條
橫渠先生曰、人多言安於貧賤、其實只是計窮力屈才短、不能營畫耳、若稍動得、恐未肯安之、須是誠知義理之樂於利欲也乃能、是可謂洞見假道學者之情矣、而味動字、物觸乎我所嗜與我所餒、則以固非虛體、爲之所動、而淪溺亦爲塵俗、自古至今、其人不少、故吾輩宜眞樂義理、以實忘利欲矣、否則未可知動者到乎前、而安貧賤其自若焉也、
新字:横渠先生曰、人多言安於貧賤、其実只是計窮力屈才短、不能営画耳、若稍動得、恐未肯安之、須是誠知義理之楽於利欲也乃能、是可謂洞見仮道学者之情矣、而味動字、物触乎我所嗜与我所餒、則以固非虚体、為之所動、而淪溺亦為塵俗、自古至今、其人不少、故吾輩宜真楽義理、以実忘利欲矣、否則未可知動者到乎前、而安貧賤其自若焉也、
書き下し
横渠先生曰く、人多く貧賤に安んずと言ふも、其の実は只是れ計窮まり力屈し才短くして、営画する能はざるのみ。若し稍動き得ば、恐らくは未だ之に安んずるを肯ぜず。須らく是れ誠に義理の利欲より楽しきを知りて乃ち能くすべしと。是れ仮道学者の情を洞見すと謂ふべし。而して動の字を味はふに、物の我が嗜む所と我が餒うる所とに触るれば、則ち固より虚体に非ざるを以て、之が為に動かされ、淪溺して亦塵俗と為る。古より今に至るまで、其の人少なからず。故に吾輩宜しく真に義理を楽しみ、以て実に利欲を忘るべし。否らずんば未だ知るべからず、動く者前に到りて、貧賤に安んずること其れ自若たらんや。
現代語訳
横渠先生(張載)は言う。「人は多く貧賤に安んじていると言うが、実はただ計略が尽き、力が及ばず、才能が足りず、うまく立ち回ることができないだけである。もし少しでも動けるなら、おそらく安んじてはいないだろう。本当に義理が利欲よりも楽しいと知ってはじめてできることである。」これは偽の道学者の内情を見抜いたものと言える。そして「動」の字を味わうと、自分の好むものや自分が飢えているものに物が触れると、もとより心が虚の体ではないので、それに動かされ、溺れ沈んで俗塵にまみれる。昔から今まで、そういう人は少なくない。だから私たちは本当に義理を楽しみ、実際に利欲を忘れるべきである。そうでなければ、心を動かすものが目の前に来たとき、貧賤に安んじて平然としていられるかどうかわからない。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷上・第百十一條利欲紛挙するの時に当りて、致良知を以て斆学と為すは、実に迂愚に庶し。然り而して之を舎つれば以て復た性を為す人の道無し。故に天地の為に心を立て、万世の為に太平を開くの志有る者に非ずんば、孰か能く真に之を斆学せんや。故に姚江の師弟の外、未だ嘗て其の人を見ざるなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十三條董子曰く、其の誼を正して、其の利を計らず、其の道を明らかにして、其の功を計らずと。宋の大儒范内翰祖禹毎に之を荘誦し、人に謂ひて曰く、君子身を行ひ朝に立つは当に此の如くなるべし、若し夫れ成功は則ち天なりと。而して朱子も亦之を採りて以て其の小学に書し、以て白鹿洞の学則に掲ぐ。故に人口に膾炙すること幾百年茲に於てす。而して其の誼を正し道を明らかにするの訓、何ぞ之を口にする者多くして、之を躬行する者少きや。其の然る所以を究むれば他に非ず、只功を計り利を計るの慾有るを以てなり。而して中人以下は斯の慾無きに至ること能はず。然れども真に学に志す者は、則ち先づ斯の慾を去らざるべからず。斯の慾を去るの工夫も、亦只其の義に当りては其の身の禍福生死を顧みずして、果敢に之を行ひ、其の道に当りては、其の事の成敗利鈍を問はずして、公正に之を履む。則ち其の慾日に薄くして、道義終に家常の茶飯と為らん。此れ虚言に非ず。漢に在りては諸葛武侯、唐に在りては二顔、宋に在りては文謝、明に在りては劉黄、是れ皆道義を以て茶飯と為す者なり。学者如し亦此に至れば、則ち庶幾くは江都紫陽二子の後人に貽る所の意に酬いん。
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『洗心洞箚記』卷上・第百二十六條顔子の楽は、万生の楽を以て楽と為す。朱子曰く、人の楽しまざる所以の者は、欲有るのみ、欲無ければ便ち楽しむ、と。夫れ心欲無き時に当りては、只だ虚のみ。虚なれば則ち万生の楽を以て楽と為す。何となれば、万生吾が虚中に在るを以てなり。顔子は亜聖、既に其の境に至る、故に楽しむ。吾人と雖も如し欲無くんば、則ち必ず顔子と其の楽を同じうせん。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十條先生豈に我を欺かんや。而して道を見得る能はざるは、他無し、利禄の念惟れ是れ蔽ふなり。故に胸に万巻を富み、口に錦繡を吐くと雖も、其の志此に在りて彼に在らざれば、則ち其の求むる所、顔閔と背馳す。之を総ぶるに志利禄に在るを以て、故に句読文義に従事するなり。句読文義に従事すれば、則ち利禄を求むるなり。相首尾を為して、道の伝はらざること此に在り。先生本と毫爽にして轍を改め、道を羅門に求め、以て亀山を歴、伊洛に溯り、千載不伝の道を得て、又之を紫陽に授け、終に天下道統の梁脊と為る、豈に亦た偉ならずや。而して後進何を以てか其の道味を窺ひ得ん。亦た他無し、只だ先生の教へに従へば則ち必ず得ん。教へとは何ぞ、治心の功を以て衣食の謀に易ふれば、則ち庶幾からん。
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『洗心洞箚記』卷上・第七十七條存心に二有り。聖賢より已下、心を理に存するは、固より無かるべからず。心を欲に存するは、決して有るべからず。然れども心を欲に存するは即ち易く、心を理に存するは乃ち難し。古人の詩に云ふ所の「呼び起す十年心上の事、春風楼下花を売る声」、是れ亦心を欲に存する者に庶し。故に学者省察の工夫、時刻も廃すべからざるは、此を以てなり。
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『洗心洞箚記』卷上・第二十條心太虚に帰せざれば則ち必ず物有り。物有りて動かずと謂ふ者は、便ち是れ告子の強制の道にして、孟子の云ふ所に非ざるなり。孟子の不動は、太虚に即するを以てなり。火に入りて熱からず、水に入りて濡れず。何ぞ況んや区区たる富貴貧賤の之を動かすに足らんや。
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