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洗心洞箚記 / 卷下・第三十二條

張南士曰、心學不是禪學、天不生佛時、先生此心、佛法未入中國時、已早有存心養性之學、令懼其類禪而去此心何可、夫儒佛之不類多矣、鬚髮不類、家室居處都不類、然猶相類者、此人心耳、若人與蟲獸、則絕無一類者、然而虎狼父子、蜂蟻君臣、忠孝之心、偶亦相同、萬一攻心學者、惟恐類蟲獸、而倂此忠孝之心一齊去之、是蟲獸不若也、二王毛氏之說、皆亦明心學之奧也、由是觀之、則聖學之要、讀書之訣、只求放心而已矣、只正心而已矣、此外更無學矣、亦奚足疑哉、

新字:張南士曰、心学不是禅学、天不生仏時、先生此心、仏法未入中国時、已早有存心養性之学、令懼其類禅而去此心何可、夫儒仏之不類多矣、鬚髪不類、家室居処都不類、然猶相類者、此人心耳、若人与虫獣、則絶無一類者、然而虎狼父子、蜂蟻君臣、忠孝之心、偶亦相同、万一攻心学者、惟恐類虫獣、而併此忠孝之心一斉去之、是虫獣不若也、二王毛氏之説、皆亦明心学之奥也、由是観之、則聖学之要、読書之訣、只求放心而已矣、只正心而已矣、此外更無学矣、亦奚足疑哉、

書き下し

張南士曰く、心学は是れ禅学ならず。天、仏を生ぜざる時、先づ此の心を生ず。仏法未だ中国に入らざる時、已に早く存心養性の学有り。其の禅に類するを懼れて此の心を去らしむるは、何ぞ可ならんや。夫れ儒仏の類せざること多し。鬚髪類せず、家室居処都て類せず。然れども猶ほ相類する者は、此の人心のみ。人と虫獣との若きは、則ち絶えて一の類する者無し。然り而して虎狼の父子、蜂蟻の君臣、忠孝の心、偶々亦相同じ。万一心学を攻むる者、惟だ虫獣に類するを恐れて、此の忠孝の心を併せて一斉に之を去らば、是れ虫獣に若かざるなりと。二王・毛氏の説、皆亦心学の奥を明らかにするなり。是に由りて之を観れば、則ち聖学の要、読書の訣は、只放心を求むるのみ、只心を正すのみ。此の外に更に学無し。亦奚ぞ疑ふに足らんや。

現代語訳

張南士は言う。「心学は禅学ではない。天は仏を生む前に、まずこの心を生んだ。仏法がまだ中国に入っていない時に、すでに心を保ち本性を養う学があった。禅に似ているのを恐れてこの心を捨てさせるなど、どうしてよいことがあろう。そもそも儒と仏の似ていないところは多い。ひげや髪の扱いも似ていないし、家庭や住まいもすべて似ていない。それでもなお似ているのは、この人の心だけである。人と虫や獣とでは、まったく似たところがない。それでも虎や狼の親子、蜂や蟻の君臣には、忠孝の心がたまたま同じようにある。万一、心学を攻撃する者が、虫や獣に似ることだけを恐れて、この忠孝の心まで一緒に捨ててしまうなら、それは虫や獣にも及ばない。」二人の王氏(王陽明・王畿)と毛氏の説も、みな心学の奥義を明らかにしたものである。こうして見ると、聖学の要点と読書の秘訣は、ただ放ってしまった心を求めることだけ、ただ心を正すことだけであり、これ以外に学問はない。どうして疑うに足りようか。

解説

心学は禅学だという非難に対する結びの段である。張南士の言葉を引いて、仏法が中国に入る前から存心養性の学はあり、儒と仏が似ているのは人の心という一点だけで、それを恐れて心まで捨てるなら、親子や君臣の情を持つ虎狼や蜂蟻にも劣ると論じる。そして中斎は、聖学の要も読書の秘訣も、放心を求め心を正すことに尽きると結ぶ。似ている部分を恐れて大事な核まで捨ててしまう過ちは、他者との差別化に走るあまり本来の目的を見失う組織にも起こりうる。

この章句が説くこと

心学禅放心正心忠孝読書

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