洗心洞箚記 / 卷上・第百二十六條
顏子之樂、以萬生之樂爲樂、朱子曰、人之所以不樂者、有欲耳、無欲便樂、夫心當無欲時、只虛而已、虛則以萬生之樂爲樂、何者、以萬生在吾虛中也、顏子亞聖、旣至其境、故樂焉、雖吾人如無欲、則必與顏子同其樂矣、
新字:顔子之楽、以万生之楽為楽、朱子曰、人之所以不楽者、有欲耳、無欲便楽、夫心当無欲時、只虚而已、虚則以万生之楽為楽、何者、以万生在吾虚中也、顔子亜聖、既至其境、故楽焉、雖吾人如無欲、則必与顔子同其楽矣、
書き下し
顔子の楽は、万生の楽を以て楽と為す。朱子曰く、人の楽しまざる所以の者は、欲有るのみ、欲無ければ便ち楽しむ、と。夫れ心欲無き時に当りては、只だ虚のみ。虚なれば則ち万生の楽を以て楽と為す。何となれば、万生吾が虚中に在るを以てなり。顔子は亜聖、既に其の境に至る、故に楽しむ。吾人と雖も如し欲無くんば、則ち必ず顔子と其の楽を同じうせん。
現代語訳
顔子(顔回)の楽しみは、万物の生の楽しみを自分の楽しみとすることである。朱子は「人が楽しめないのは、欲があるからにすぎない。欲がなければすぐに楽しめる」と言った。そもそも心に欲がないときは、ただ虚であるだけである。虚であれば万物の生の楽しみを自分の楽しみとする。なぜなら万物の生がわが虚の中にあるからである。顔子は聖人に次ぐ人で、すでにその境地に至っていたから楽しんだ。我々であっても、もし欲がなければ、必ず顔子とその楽しみを同じくするだろう。
解説
『論語』雍也篇で、貧しい暮らしの中でも「其の楽しみを改めず」と称えられた顔回の楽しみとは何かは、宋学以来の大きな問いである。中斎は、欲のない心は虚であり、虚の中に万物の生があるから、万物の楽しみをわが楽しみとするのが顔回の楽だと答える。欲が無ければ楽しいという朱子の言葉も引く。さらに、欲さえ無ければ我々凡人も顔回と同じ楽しみを得られると励ます。物や地位で得る楽しみは奪われるが、人の喜びを自分の喜びとできる心は誰にも奪えない。
この章句が説くこと
楽無欲虚顔回朱子太虚
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