洗心洞箚記 / 卷下・第百二十條
先生豈欺我哉、而不能見得道、無他、利祿之念惟是蔽也、故雖胸富萬卷、而口吐錦繡、其志在此不在彼、則其所求、與顏閔背馳、總之以志在利祿、故從事句讀文義也、從事句讀文義、則求利祿也、相爲首尾、而道之不傳在此矣、先生本毫爽而改轍、求道于羅門、以歷龜山、溯伊洛、得千載不傳之道、而又授之紫陽、終爲天下道統之梁脊、豈不亦偉乎、而後進以何窺得其道味、亦無他、只從先生之敎則必得焉、敎者何、以治心之功易衣食之謀、則庶幾焉、
新字:先生豈欺我哉、而不能見得道、無他、利禄之念惟是蔽也、故雖胸富万巻、而口吐錦繍、其志在此不在彼、則其所求、与顔閔背馳、総之以志在利禄、故従事句読文義也、従事句読文義、則求利禄也、相為首尾、而道之不伝在此矣、先生本毫爽而改轍、求道于羅門、以歴亀山、溯伊洛、得千載不伝之道、而又授之紫陽、終為天下道統之梁脊、豈不亦偉乎、而後進以何窺得其道味、亦無他、只従先生之教則必得焉、教者何、以治心之功易衣食之謀、則庶幾焉、
書き下し
先生豈に我を欺かんや。而して道を見得る能はざるは、他無し、利禄の念惟れ是れ蔽ふなり。故に胸に万巻を富み、口に錦繡を吐くと雖も、其の志此に在りて彼に在らざれば、則ち其の求むる所、顔閔と背馳す。之を総ぶるに志利禄に在るを以て、故に句読文義に従事するなり。句読文義に従事すれば、則ち利禄を求むるなり。相首尾を為して、道の伝はらざること此に在り。先生本と毫爽にして轍を改め、道を羅門に求め、以て亀山を歴、伊洛に溯り、千載不伝の道を得て、又之を紫陽に授け、終に天下道統の梁脊と為る、豈に亦た偉ならずや。而して後進何を以てか其の道味を窺ひ得ん。亦た他無し、只だ先生の教へに従へば則ち必ず得ん。教へとは何ぞ、治心の功を以て衣食の謀に易ふれば、則ち庶幾からん。
現代語訳
先生(李侗)がどうして私を欺こうか。道を見得ることができないのは、ほかでもない、利禄(官職と俸禄)を求める念だけがそれを覆い隠しているのである。だから胸に万巻の書を蓄え、口から錦のような美文を吐いても、その志がこちら(利禄)にあってあちら(道)になければ、その求めるところは顔回や閔子騫と正反対になる。まとめて言えば、志が利禄にあるから句読や文義に従事するのであり、句読や文義に従事するのは利禄を求めるためである。互いに頭と尾となって、道が伝わらない原因はここにある。先生はもともと豪快で爽やかな人で、それまでの道を改めて羅氏の門に道を求め、そこから亀山を経て伊洛にさかのぼり、千年伝わらなかった道を得て、さらにそれを紫陽(朱子)に授け、ついに天下の道統の棟木となった。なんと偉大なことではないか。では後進は何によってその道の味をうかがい得るのか。これもほかでもない、ただ先生の教えに従えば必ず得られる。その教えとは何か。心を治める工夫を、衣食の算段と取り替えるほどに切実にすれば、道に近づけるだろう。
解説
この章句が説くこと
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
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『慎思録』巻之六古来本邦の文学の士、往往詩文を作為することを喜ぶ。其の工夫甚だ苦し。然れども其の文字多しと雖も、中華の作に似ず、作文の法度無き者多し。惜しむべし、箇の無益の閑労擾を做し、枉げて心力を費やすことを。若し果たして道を求むるの志有らば、断じて此に到らじ。
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『文武訓』文訓下一文学ひろく、聖賢の書をあまねく読んでも、道を知らざる人古今多し。斯くひろく聖賢の書を読んでは、道を知るべくして知らざるは、志なく聰明なきゆゑなり。文学に通ぜず、聖賢の書を多く読まずして、道を知れらん人は古今これなし。是道理のなき所なり。舟橋なくして海河をわたり、梯なくして高きに登らんとするが如し。近世、種の学問文学をせずして、聖学をせんとするも、文学して義理を知らざるも同じ。たとへば歌学をせずして、和歌のあしき人はあり。歌学なくしてうたよく詠む人はなきが如し。但学問なく、すこし師の口伝をききて、頗心ををさめんとする人あり。是亦聴かざるに遥にまされり。稊稗の熟するは、五穀の熟せざるにまされるが如し。
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『慎思録』巻之一或ひと疑ふ、世間書を読むの人多し。往往身心に益無き者は、何ぞやと。曰く、学を為すは志を立つるに在り。苟も志無きの人は、広覧博聞すと雖も、己に益無し。然れども志なる者は己に由りて有する所にして、別人に管せず。須らく自己奮起すべし。故に皮日休云ふ、聖人は人に道を与ふれども、人に志を与ふること能はずと。夫れ六経四書の載する所の者は、聖人の道なり。六経四書の文字は、聖人の言なり。志有る者は、其の言を誦して其の道を求む。益有る所以なり。志無き者は、其の言を誦して其の道を忘る。益無き所以なり。凡そ学ぶ者は、躬行して之を心得することを貴ぶ。苟も聖人の道を求むるに志無くんば、則ち躬行心得すること能はず。然らば則ち博学強記し、日日経義を説くと雖も、奚ぞ其の身に益有るべけんや。
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『慎思録』巻之五凡そ事は必ず咨訪して後に明らかなり。故に曰く、問ふことを好めば則ち裕かなり、と。必ず経歴して後に熟す。故に曰く、一事に躓く者は一智を長ず、と。苟も咨訪せずして自ら用ひ、経歴せずして妄りに行へば、亦殆ふいかなと曰ふ。朱子曰く、学は道を知るを以て本と為す。道を知れば則ち学純にして心正し、と。愚謂ふ、是れ学を為すの本旨なり。学者の志を立つる、宜しく此くの如くなるべし。蓋し学は将に以て道を知らんとす。苟も学を為して、道を知るを以て本と為さずんば、博学広聞すと雖も益無く、徒に心思を労するのみ。所謂多しと雖も亦奚を以て為さんといふものなり。夫れ道を知るは固より極めて難し。然れども道を知るを以て志と為さざれば、則ち学を為すこと駁雑にして純一ならず、心を立つること邪僻にして平正ならず。其の本を失ふに因るなり。然らば則ち宏才博聞の人に逾ゆる有りと雖も、儒者の学と為すべからず。百家衆技の流と相同じきを免れず。此れ即ち俗学の習ひにして、亦貴しと為すに足らず。若し乃ち朱子の言を以て之を反覆して言はば、道を知らんと欲すれば、則ち先づ須らく学純にして心正しきを要すべし。苟も学雑にして純一ならず、心正しからずして邪僻なれば、則ち道と相乖戻す。何を以てか道を知るを得んや。
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