洗心洞箚記 / 卷下・第二十二條
朱子與陳同甫書曰、絀去義利雙行、王霸並用之說、而從事於懲忿窒慾遷善改過之事、粹然以醇儒之道自律、則豈獨免於人道之禍、而所以培壅本根澄源正本、爲異時發揮事業之地者、益光大而高明矣、吾意者義利雙行、王霸並用之事、陳氏特擧於口舌而已、而其心則亦庶幾歸乎道、而從朱子學者蔡氏父子、及黃李數子之外、雖皆稱道學、恐未能免其裏面有義利雙行、王霸並用之實也、豈非彼善乎此耶、然則朱子所論、非但醫陳氏之陽病、卻亦砭其徒之陰病也、吾輩表裏不合一、心口不同符、故亦當反觀內省、而去其病、粹然以醇儒之道自律、則庶乎弛先賢之憂患矣、
新字:朱子与陳同甫書曰、絀去義利双行、王覇並用之説、而従事於懲忿窒慾遷善改過之事、粋然以醇儒之道自律、則豈独免於人道之禍、而所以培壅本根澄源正本、為異時発揮事業之地者、益光大而高明矣、吾意者義利双行、王覇並用之事、陳氏特挙於口舌而已、而其心則亦庶幾帰乎道、而従朱子学者蔡氏父子、及黄李数子之外、雖皆称道学、恐未能免其裏面有義利双行、王覇並用之実也、豈非彼善乎此耶、然則朱子所論、非但医陳氏之陽病、却亦砭其徒之陰病也、吾輩表裏不合一、心口不同符、故亦当反観内省、而去其病、粋然以醇儒之道自律、則庶乎弛先賢之憂患矣、
書き下し
朱子、陳同甫に与ふる書に曰く、義利双行・王覇並用の説を絀け去りて、懲忿窒慾・遷善改過の事に従事し、粋然として醇儒の道を以て自ら律すれば、則ち豈に独り人道の禍を免るるのみならんや、而して本根を培壅し源を澄まし本を正し、異時事業を発揮するの地と為す所以の者、益々光大にして高明ならんと。吾意ふに、義利双行・王覇並用の事は、陳氏特に口舌に挙ぐるのみにして、其の心は則ち亦庶幾くは道に帰せん。而して朱子に従ひて学ぶ者、蔡氏父子、及び黄・李数子の外は、皆道学を称すと雖も、恐らくは未だ其の裏面に義利双行・王覇並用の実有るを免れざるなり。豈に彼の此より善きに非ずや。然らば則ち朱子の論ずる所は、但だ陳氏の陽病を医すのみに非ず、却って亦其の徒の陰病を砭するなり。吾輩、表裏合一せず、心口符を同じくせず、故に亦当に反観内省して、其の病を去り、粋然として醇儒の道を以て自ら律すべし。則ち先賢の憂患を弛むるに庶からん。
現代語訳
朱子は陳同甫(陳亮)に与えた手紙で言う。「義と利を並べて行い、王道と覇道を併せ用いるという説を退けて、怒りを戒め欲を抑え、善に移り過ちを改めることに努め、純粋な儒者の道で自分を律するなら、人の道にそむく禍を免れるだけでなく、根本を培い、源を澄ませ本を正して、他日事業を発揮する土台となるものが、ますます大きく明らかになるだろう。」私が思うに、義利双行・王覇並用ということは、陳氏はただ口で言っただけで、その心はおそらく道に帰していたであろう。一方、朱子に従って学んだ者は、蔡氏父子と黄・李ら数人のほかは、みな道学を称していても、おそらくその裏に義利双行・王覇並用の実態があることを免れなかった。陳氏のほうがかえって彼らより善いのではないか。そうであれば、朱子の論は陳氏の表に出た病を治すだけでなく、かえってその門人たちの隠れた病に針を打つものでもある。私たちは表と裏が一つでなく、心と口が一致していない。だから私たちもまた自分を振り返って省み、その病を取り除き、純粋な儒者の道で自分を律すべきである。そうすれば先賢の憂いを和らげることに近いであろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『武士道』第六章 禮儀・誠を語ると礼を守ると試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると、いづれか重きやと問はば、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否はしばらく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て、之に論及するものあらん。
-
呂氏春秋・士容②齊に善く狗を相する者有り。其の鄰假いて以て鼠を取るの狗を買わんとす。期年にして乃ち之を得て、曰く、「是れ良狗なり。」其の鄰、之を畜うこと數年なれども、鼠を取らず。以て相する者に告ぐ。相する者曰く、「此れ良狗なり。其の志は獐麋豕鹿に在り、鼠に在らず。其の鼠を取らんことを欲せば、則ち之に桎せよ。」其の鄰、其の後ろ足に桎すれば、狗乃ち鼠を取る。夫れ驥驁の氣、鴻鵠の志、人心に諭らるる者有るは誠なればなり。人も亦た然り。誠之れ有れば則ち神、人に應ず。言豈に以て之を諭すに足らんや。此を不言の言と謂うなり。
-
荀子・不苟篇君子の心を養うは誠より善きは莫し。誠を致さば則ち它事無し。唯だ仁のみ之れ守と為し、唯だ義のみ之れ行と為す。心を誠にして仁を守れば則ち形れ、形るれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行なえば則ち理あり、理あれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち能く変ず。変化代わる代わる興る、之を天徳と謂う。天は言わずして人は高きを推し、地は言わずして人は厚きを推し、四時は言わずして百姓は期す。夫れ此れ常有るは、其の誠を至せる者を以てなり。君子の至徳は、嘿然として喩り、未だ施さずして親しみ、怒らずして威あり。夫れ此れ命に順うは、其の独りを慎む者を以てなり。善の道を為すや、誠ならざれば則ち独ならず、独ならざれば則ち形れず、形れざれば則ち心に作り、色に見れ、言に出づと雖も、民は猶お未だ従わざるが若し。従うと雖も必ず疑う。天地は大と為すも、誠ならざれば則ち万物を化する能わず。聖人は知と為すも、誠ならざれば則ち万民を化する能わず。父子は親と為すも、誠ならざれば則ち疏し。君上は尊と為すも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は、君子の守る所にして、政事の本なり。唯だ居る所にして其の類を以て至る。之を操れば則ち之を得、之を舎つれば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち軽し、軽ければ則ち独行す。独行して舎てざれば、則ち済る。済りて材尽き、長く遷りて其の初めに反らざれば、則ち化す。
-
言志四録・南洲手抄意の誠否は、須らく夢寐中の事に於て之を験すべし。
-
論語・八佾篇祭ること在るが如く。神を祭ること神在るが如し。子曰く、『吾、祭に与らざれば、祭らざるが如し。』
-
『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る