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洗心洞箚記 / 卷下・第十五條

二氏雖異端、其設敎意則固亦長善消惡也已矣、故其說合道者間有之、然猶以異端不取其合道者、則非狹隘乎、善哉鄒東廓先生之說曰、吾儒之敎、若三間正堂、聖聖相傳、洒掃以爲世業、聖人不作、而堂無祖矣、老氏入其左角、指天畫地曰、此吾之堂也、釋氏入其右角、指天畫地曰、此吾之堂也、於是堂中之人、眩然迷亂、而不知其眞、後之儒者、欲恢復聖人之道、則亦入居中堂、洒掃以復其舊可矣、乃割其左以歸老、割其右以歸釋、而聖人之堂遂決裂而不完、蓋二氏之言、其合道者、固吾儒之道也、至於拂經而畔道、則以所居之偏、無以履大中、而由至正焉耳、而槩指言以爲老釋之道、雖其合道者、一切禁忌、若相汚染、然是割吾地棄吾兵糧、借盜而助之攻也、嗚呼、先生之說公正濶大、非親炙陽明先生、而心歸乎太虛、其早見奚至乎此哉、

新字:二氏雖異端、其設教意則固亦長善消悪也已矣、故其説合道者間有之、然猶以異端不取其合道者、則非狭隘乎、善哉鄒東廓先生之説曰、吾儒之教、若三間正堂、聖聖相伝、洒掃以為世業、聖人不作、而堂無祖矣、老氏入其左角、指天画地曰、此吾之堂也、釈氏入其右角、指天画地曰、此吾之堂也、於是堂中之人、眩然迷乱、而不知其真、後之儒者、欲恢復聖人之道、則亦入居中堂、洒掃以復其旧可矣、乃割其左以帰老、割其右以帰釈、而聖人之堂遂決裂而不完、蓋二氏之言、其合道者、固吾儒之道也、至於払経而畔道、則以所居之偏、無以履大中、而由至正焉耳、而槩指言以為老釈之道、雖其合道者、一切禁忌、若相汚染、然是割吾地棄吾兵糧、借盗而助之攻也、嗚呼、先生之説公正濶大、非親炙陽明先生、而心帰乎太虚、其早見奚至乎此哉、

書き下し

二氏は異端と雖も、其の教を設くる意は則ち固より亦善を長じ悪を消すのみ。故に其の説、道に合ふ者間々之有り。然るに猶ほ異端を以て其の道に合ふ者を取らざるは、則ち狭隘に非ずや。善いかな鄒東廓先生の説に曰く、吾が儒の教は、三間の正堂の若し。聖聖相伝へ、洒掃して以て世業と為す。聖人作らずして、堂に祖無し。老氏其の左角に入り、天を指し地を画して曰く、此れ吾が堂なりと。釈氏其の右角に入り、天を指し地を画して曰く、此れ吾が堂なりと。是に於いて堂中の人、眩然として迷乱し、其の真を知らず。後の儒者、聖人の道を恢復せんと欲すれば、則ち亦中堂に入居し、洒掃して以て其の旧に復して可なり。乃ち其の左を割きて以て老に帰し、其の右を割きて以て釈に帰し、而して聖人の堂遂に決裂して完からず。蓋し二氏の言、其の道に合ふ者は、固より吾が儒の道なり。経に払り道に畔くに至りては、則ち居る所の偏なるを以て、以て大中を履みて、至正に由ること無きのみ。而るに槩して言を指して以て老釈の道と為し、其の道に合ふ者と雖も、一切禁忌し、相汚染するが若くす。然れば是れ吾が地を割き吾が兵糧を棄て、盗に借して之を助けて攻めしむるなりと。嗚呼、先生の説、公正濶大なり。陽明先生に親炙して、心太虚に帰するに非ずんば、其の早見奚ぞ此に至らんや。

現代語訳

老荘と仏教の二家は異端ではあるが、その教えを設けた意図はもとより善を伸ばし悪を消すことにある。だからその説には道にかなうものが時々ある。それなのに、異端だからといって道にかなうものまで取らないのは、狭量ではないか。鄒東廓先生(鄒守益)の説はすばらしい。「わが儒の教えは三間の正堂のようなものである。聖人から聖人へと伝え、掃除して代々の家業としてきた。聖人が出なくなると、堂には主がいなくなった。老子の一派がその左の隅に入り、天を指し地を区切って『ここはわれらの堂だ』と言った。仏教の一派がその右の隅に入り、天を指し地を区切って『ここはわれらの堂だ』と言った。こうして堂の中の人々は目がくらんで迷い乱れ、何が本当かわからなくなった。後の儒者が聖人の道を取り戻そうとするなら、やはり中央の堂に入って住み、掃除して元どおりにすればよかった。ところが左を割いて老子に渡し、右を割いて仏教に渡したので、聖人の堂はついに裂けて完全でなくなった。思うに、二家の言葉のうち道にかなうものは、もとよりわが儒の道である。経書に背き道にそむくところについては、居る場所が偏っているために、大いなる中を踏み、至正の道に従うことができないだけである。それなのに一概にその言葉を指して老荘や仏教の道だとし、道にかなうものまですべて忌み嫌い、汚れが移るかのように扱う。それは自分の土地を割き、自分の兵糧を捨てて、盗賊に貸して攻めるのを助けるようなものだ。」ああ、先生の説は公正で広大である。陽明先生に直接教えを受け、心が太虚に帰した人でなければ、その見識がどうしてここまで至ろうか。

解説

陽明の高弟鄒守益の「三間の正堂」のたとえを引いて、老荘や仏教の説でも道にかなうものは儒の道として取るべきだと説く条である。異端と名がつくだけで良いものまで忌み嫌えば、自分の土地と兵糧を敵に渡すことになるという。中斎の太虚の説がしばしば老仏に似ると疑われたこともあり、この寛い立場は自らの弁明でもある。出どころや看板で良し悪しを決めず、中身で取捨するという態度は、他社や他分野の知恵を取り入れるときの心構えとしてそのまま使える。

この章句が説くこと

太虚異端公正陽明学道鄒守益

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