洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條
孟雲浦師事尤西川、西川卽服陽明子之學者也、雲浦萬曆八年進士、時相欲招致之、辭不行、榷稅河西務、與諸生講學、河西人尸祝之、南畿山東大飢、奉命往振、全活多、不附閣臣、不通中官、以故多不悅、救張棟忤上旨、斥爲民、旣築書院川上、與學者講習不輟、四方從遊者恆數百人、久之卒、雲浦與孟我彊相砥礪、時人稱爲二孟、
新字:孟雲浦師事尤西川、西川即服陽明子之学者也、雲浦万暦八年進士、時相欲招致之、辞不行、榷税河西務、与諸生講学、河西人尸祝之、南畿山東大飢、奉命往振、全活多、不附閣臣、不通中官、以故多不悦、救張棟忤上旨、斥為民、既築書院川上、与学者講習不輟、四方従遊者恒数百人、久之卒、雲浦与孟我彊相砥礪、時人称為二孟、
書き下し
孟雲浦は尤西川に師事す。西川は即ち陽明子の学に服する者なり。雲浦、万暦八年の進士。時の相、之を招致せんと欲するも、辞して行かず。税を河西務に榷し、諸生と学を講ず。河西の人之を尸祝す。南畿・山東大いに飢う。命を奉じて往きて振ひ、全活するもの多し。閣臣に附かず、中官に通ぜず、故を以て多く悦ばず。張棟を救ひて上旨に忤ひ、斥けられて民と為る。既にして書院を川上に築き、学者と講習して輟めず。四方の従遊する者恒に数百人。之を久しくして卒す。雲浦、孟我彊と相砥礪し、時人称して二孟と為す。
現代語訳
孟雲浦(孟化鯉)は尤西川(尤時熙)に師事した。西川は陽明子の学に心服した人である。雲浦は万暦八年(1580)の進士である。時の宰相が彼を招き寄せようとしたが、断って行かなかった。河西務で税の取り立てを担当し、学生たちと学問を講じた。河西の人々は彼を祀って敬った。南畿(南直隷)と山東が大飢饉になると、命を受けて救済に行き、多くの人の命を救った。内閣の大臣にへつらわず、宦官とも通じなかったので、快く思わない者が多かった。張棟をかばって帝の意に逆らい、官を退けられて庶民にされた。その後、川のほとりに書院を築き、学ぶ者たちと講習してやめなかった。四方から従い学ぶ者は常に数百人いた。しばらくして亡くなった。雲浦は孟我彊と互いに磨き合い、当時の人は二人を「二孟」と呼んだ。
解説
この章句が説くこと
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人物志・體別夫れ學は材を成す所以なり、疏は情を推す所以なり。偏材の性は、移轉すべからず。
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