洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條
黃石齋劉念臺二賢共私淑良知之學、石齋以知止爲學的、念臺以愼獨爲聖功、各當天下之亂、守人臣之節、周旋奸臣之間、扶持善類之危、雖各斥爲民、起復與社稷同存亡、石齋雖被執、不肯降奴兒、於幽室囚服中、與所從之門人趙士超等四人、講習吟咏如常、而遂共見殺、念臺及南都亡、拒人勸、以世無逃生之宰相、亦豈有逃死之御史大夫哉、絕食二十三日、與門人問答如平時、遂以卒、而其門人三十又五人、其間爲忠臣、爲義士、爲逸民、皆不負所學、而能光於門下者也、而孫蘇門李二曲黃黎洲之三子、皆全節丘園、不受奴兒官職、嗚呼、此皆非良知之餘澤哉、
新字:黄石斎劉念台二賢共私淑良知之学、石斎以知止為学的、念台以慎独為聖功、各当天下之乱、守人臣之節、周旋奸臣之間、扶持善類之危、雖各斥為民、起復与社稷同存亡、石斎雖被執、不肯降奴児、於幽室囚服中、与所従之門人趙士超等四人、講習吟咏如常、而遂共見殺、念台及南都亡、拒人勧、以世無逃生之宰相、亦豈有逃死之御史大夫哉、絶食二十三日、与門人問答如平時、遂以卒、而其門人三十又五人、其間為忠臣、為義士、為逸民、皆不負所学、而能光於門下者也、而孫蘇門李二曲黄黎洲之三子、皆全節丘園、不受奴児官職、嗚呼、此皆非良知之余沢哉、
書き下し
黄石斎・劉念台の二賢は共に良知の学に私淑す。石斎は知止を以て学の的と為し、念台は慎独を以て聖功と為す。各々天下の乱に当たり、人臣の節を守り、奸臣の間に周旋し、善類の危ふきを扶持す。各々斥けられて民と為ると雖も、起復して社稷と存亡を同じくす。石斎は執へらると雖も、奴児に降るを肯ぜず、幽室囚服の中に於いて、従ふ所の門人趙士超等四人と、講習吟詠すること常の如くして、遂に共に殺さる。念台は南都の亡ぶに及び、人の勧めを拒み、世に逃生の宰相無きを以て、亦豈に逃死の御史大夫有らんやとし、絶食すること二十三日、門人と問答すること平時の如くして、遂に以て卒す。而して其の門人三十又五人、其の間、忠臣と為り、義士と為り、逸民と為り、皆学ぶ所に負かずして、能く門下に光ある者なり。而して孫蘇門・李二曲・黄黎洲の三子は、皆節を丘園に全うし、奴児の官職を受けず。嗚呼、此れ皆良知の余沢に非ずや。
現代語訳
黄石斎(黄道周)と劉念台(劉宗周)の二人の賢者は、ともに良知の学に私淑した。石斎は「止まるを知る」(『大学』)を学問の目標とし、念台は「独りを慎む」を聖人に至る工夫とした。それぞれ天下の乱にあたって臣下としての節義を守り、奸臣のあいだで立ち回り、善人たちの危難を支えた。それぞれ官を退けられて庶民にされたが、再び起用されて国家と存亡をともにした。石斎は捕らえられても奴児(清朝を指す蔑称)に降ることを承知せず、幽閉された部屋で囚人の服を着たまま、従った門人の趙士超ら四人と、ふだんどおり講習し詩を吟じ、ついにともに殺された。念台は南都(南京の明朝)が滅ぶと、人の勧めを拒み、「世に生をむさぼって逃げる宰相がいないのに、どうして死を逃れる御史大夫がいようか」として、二十三日間絶食し、門人とふだんどおり問答して、ついに亡くなった。その門人三十五人は、忠臣となり、義士となり、隠者となり、みな学んだことに背かず、師の門下に光を添えた人々である。そして孫蘇門・李二曲・黄黎洲の三人は、みな郷里の田園で節を全うし、奴児の官職を受けなかった。ああ、これはみな良知の余沢ではないか。
解説
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條況んや朝廷の権、内豎に帰し、奸を懐き寵を固むるの徒、依附結納して、主の明を擁蔽す。厳嵩父子悪を済す。荘烈帝之を除くと雖も、而も周延儒・温体仁、私を懐き党を植ゑ、忠邪倒置す。楊忠愍の刑に遭ひてより以来、天下の名賢、皆閹人の為に斃る。是に於いて元気尽く澌き、国脈絶えんと垂とす。亡びざらんと欲するも、得んや。然り而して士類各々上は天を怨みず、下は人を尤めず、只忠を尽くし節を殫くし、数年の間、彼を防ぎ此を禦ぎ、戦没の外、縊死・投繯・入水し、而して売降する者更に多きこと無し。宋末と大いに反する者は、何ぞや。此れ又豈に良知の教の人心を維持するに非ずや。噫、孰か其の明季の喪乱を致すと謂はんや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條此れ南畇先生著す所の釈毀録の自叙なり。而して鄒文荘とは、所謂東廓先生なり、諱は守益、字は謙之。欧陽文荘とは、所謂南野先生なり、諱は徳、字は崇一。羅文恭とは、所謂念菴先生なり、諱は洪先、字は達夫。鹿忠節、諱は継善、字は伯順。蔡忠襄、諱は懋徳、字は維立。孟雲浦、諱は化鯉、字は叔龍。黄石斎、諱は道周、字は幼元。蕺山劉先生とは、所謂念台なり、諱は宗周、字は起東。孫蘇門、諱は奇逢、字は啓泰。李二曲、諱は容、字は中孚。黄黎洲、諱は宗羲、字は太冲。其の道徳功業、皆載籍に炳燿たり。閲する者之を知る。然れども載籍浩瀚にして、閲する者も亦罕なり。況んや学の姚江に属する者は、禁じて之を称せず。故に予、明史・明史藁・南疆繹史、及び学按等の書に就き、諸君の道徳功業を採りて略述す。小子之を聴け。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十六條陽明語録に曰く、一友侍す、眉間に憂思有り。先生顧みて他友に謂ひて曰く、良知は固より天に徹し地に徹し、近くは一身に徹す。人一身爽からずんば、許大の事を須ひず、第だ頭上一髪下垂すれば、渾身即ち快からずと為す。此の中那ぞ一物を容れ得んや、と。先生又曰く、其の良知の説に于けるは、百死千難の中より得来たる。是れ容易に見得て此に到るに非ず。此れ本と是れ学者究竟の話頭なり。已むを得ずして人の与に一口に説き尽くす。但だ恐る、学者之を得ること容易にして、只だ一種の光景と做して玩弄し、此の知に孤負せんことを、と。謹んで按ずるに、先生の良知は、易きが如くして難く、難きが如くして亦易し。前の一条を以て之を見れば、則ち光景に庶し、故に易きが如し。然れども一点も心に存せざるに至るは、則ち実に難し。王龍渓・王心斎及び羅近渓三先生の学は、蓋し此よりして入る。後の一条を以て之を見れば、則ち実践より来たる、故に難し。然れども難に甘んじ死を忘るれば、則ち事事妨礙有る無し。易きに非ずや。銭緒山・南瑞泉及び羅念菴三先生の学は、蓋し此よりして入る。其の末学各々弊無きにあらずと雖も、要するに其の性の近きより入りて、学脈を握り、教へを立て功を立つ。豈に先生の余沢に非ずや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條文成の学、之を当時に伝ふる者は、鄒文荘の若き、欧陽文荘の若き、羅文恭の若き、皆粋然として疵無き者なり。沿ひて鹿忠節・蔡忠襄・孟雲浦・黄石斎に及び、謹んで宗旨を守り、而して蕺山劉先生、闡揚洗滌し、尤も厥の成を集む。実に有明一代の道統を扶翼し、名教を主持するの帰為り。而して近ごろの文成を宗述する者、孫蘇門・李二曲・黄黎洲の諸先生の若きは、率ね皆修持邃密にして、経済通明なり。侍御、尽く挙げて之を貶抑せんと欲するも、亦能はざるなり。且つ侍御の宗とする所の者は、陳清瀾の学蔀通辯と、近今の□□□・応潜斎・張武承の言の如きに過ぎざるのみ。彼の生平の行誼を以て、前哲に視べて何如と為すや。余の深く侍御の為に惜しむ者は此れなり。三魚堂集出でてより、奉じて枕秘と為す者、益々復た簧鼓を恣にし、戈矛を逞しくし、文成を排撃するに非ざれば功と為さざる者の若し。然れども文成の緒言は幾ど絶え、而して朱子の学も、卒に未だ明らかなること有らざるなり。是れ豈に侍御の初志ならんや。嗚呼、良知喪びて、害の世道人心に中る者深し。即ひ強ひて之を縄すに居敬窮理を以てするも、其の色荘口講と為らざる者は鮮し。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條陸稼書等、清に仕へて顕職に登り、朱学を尊ぶも、実は之を尊ぶに非ざるなり。王子良知の教を抑へんが為のみ。曷為れぞ王子良知の教を抑ふるや。是れ清の君臣、別に意の在る有り。識者当に黙して之を識るべし。故に稼書等は只上の意に阿り、以て終に無稽の言を吐くに至る。然れども其の本心に非ず、只生死利害の心未だ脱せざるを以てなり。嘆ずべきの甚だしきに非ずや。且つ龍渓・心斎・近渓の末流の弊、固より多しと雖も、然れども之を以て少んずべからず。孔門に在りて其の正宗を伝ふる者は、顔・曾の二人のみ。子夏・子路等の再伝は、皆弊有り。之を以て子夏・子路等を罪せば、則ち亦刻ならずや。故に吾、二王と羅との三子を恕するは、此を以てなり。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條而して何ぞ啻だならん。徐横山の具体、銭緒山の篤信、王龍渓の精微、王心斎の超脱、聶双江の主静、薛中離の精研、其の余、劉両峰・劉獅泉・劉晴川・黄洛村・何善山・陳明水・魏水洲・冀闇斎・南瑞泉・季彭山・趙大洲・董蘿石・馮華亭等、皆良知の宗を得て、教化・経済・文章・節義の績有り。而して私淑の人、徐存斎・宋望之の如きは、業を聶双江に受け、尤西川は業を劉晴川に受け、唐荊川は業を王龍渓に受け、羅近渓は業を王心斎の再伝顔山農に受く。皆当代の名賢為り。而して許孚遠・鄧宇定・陳蒙山・万思黙・胡廬山・鄧潜谷・馮慕岡・薛方山・徐波石・張宏山・施忠愍等も、皆亦其の私淑の傑出せる者なり。而して夫の李見羅の止修の学、呂新吾の呻吟の工と雖も、皆此より蒸し出で、東林諸君の学も、多く亦源を此に導く。
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