洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條
蔡忠襄少慕陽明子爲人、萬曆四十七年進士、授抗州推官、山東白蓮賊起、浙中奸人亦殺知縣、諸變起、皆賴忠襄籌畫、事乃定、天啓五年、行取入都、同鄉顧秉謙柄國、不與通、秉謙怒、以故不得顯擢、進祀祭員外郎、尙書率諸司、往謁魏忠賢祠、忠襄託疾不赴、崇禎改元、出爲江西提學副使、須陽明子拔本塞源論於諸生、自著管見、發明良知之說、士多興起、遷浙江右參政、擒湖州劇盜屠阿丑、當事以忠襄爲知兵、內艱服除、起井陘兵備、旱禱卽雨、自餘善政軍功不可勝記、終與李自成大戰、不屈死之、
新字:蔡忠襄少慕陽明子為人、万暦四十七年進士、授抗州推官、山東白蓮賊起、浙中奸人亦殺知県、諸変起、皆頼忠襄籌画、事乃定、天啓五年、行取入都、同郷顧秉謙柄国、不与通、秉謙怒、以故不得顕擢、進祀祭員外郎、尚書率諸司、往謁魏忠賢祠、忠襄託疾不赴、崇禎改元、出為江西提学副使、須陽明子抜本塞源論於諸生、自著管見、発明良知之説、士多興起、遷浙江右参政、擒湖州劇盗屠阿丑、当事以忠襄為知兵、内艱服除、起井陘兵備、旱祷即雨、自余善政軍功不可勝記、終与李自成大戦、不屈死之、
書き下し
蔡忠襄は少くして陽明子の人と為りを慕ふ。万暦四十七年の進士、抗州推官を授けらる。山東に白蓮の賊起こり、浙中の奸人も亦知県を殺す。諸変起こるも、皆忠襄の籌画に頼りて、事乃ち定まる。天啓五年、行取せられて都に入る。同郷の顧秉謙、国を柄るも、与に通ぜず。秉謙怒り、故を以て顕擢を得ず、祀祭員外郎に進む。尚書、諸司を率ゐて往きて魏忠賢の祠に謁す。忠襄疾に託して赴かず。崇禎改元、出でて江西提学副使と為り、陽明子の抜本塞源論を諸生に頒ち、自ら管見を著して、良知の説を発明す。士多く興起す。浙江右参政に遷り、湖州の劇盗屠阿丑を擒ふ。当事、忠襄を以て兵を知ると為す。内艱、服除して、井陘兵備に起こる。旱に禱れば即ち雨ふる。自余の善政軍功、勝げて記すべからず。終に李自成と大いに戦ひ、屈せずして之に死す。
現代語訳
蔡忠襄(蔡懋徳)は若いころから陽明子の人柄を慕った。万暦四十七年(1619)の進士で、抗州(杭州)の推官(裁判官)に任じられた。山東で白蓮教の賊が起こり、浙江でも悪人が知県を殺した。さまざまな変事が起こったが、みな忠襄のはかりごとに頼って事態が収まった。天啓五年(1625)、選ばれて都に入った。同郷の顧秉謙が国政を握っていたが、忠襄は彼と交わらなかった。秉謙は怒り、そのために目立った抜擢を受けず、祀祭員外郎に進むにとどまった。尚書が諸役所の者を率いて魏忠賢(宦官)の祠に参拝しに行ったとき、忠襄は病気を口実に行かなかった。崇禎の改元(1628)にあたり、地方に出て江西提学副使(学政の長官)となり、陽明子の「抜本塞源論」を学生たちに配り、自ら『管見』を著して良知の説を明らかにした。士人の多くが奮い立った。浙江右参政に移り、湖州の大盗賊屠阿丑を捕らえた。当局は忠襄を兵事に通じた人とみなした。母の喪が明けると、井陘の兵備に起用された。日照りに祈るとすぐに雨が降った。そのほかの善政と軍功は数えきれない。最後は李自成と大いに戦い、屈せずに死んだ。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』魯問魯君の嬖人、死す。魯君、之が為に誄す。魯人、因りて説びて之を用う。子墨子、之を聞きて曰く、「誄なる者は、死人の志を道うなり。今、説びて之を用うるに因るは、是れ猶お來首を以て服に從うがごときなり」と。魯陽文君、子墨子に謂いて曰く、「我に忠臣を語る者有り。之に俯せしむれば則ち俯し、之に仰がしむれば則ち仰ぎ、處らしむれば則ち静かに、呼べば則ち應ず。忠臣と謂う可きか」と。子墨子曰く、「之に俯せしむれば則ち俯し、之に仰がしむれば則ち仰ぐは、是れ景に似たり。處らしむれば則ち静かに、呼べば則ち應ずるは、是れ響に似たり。君、将た何をか景と響とに得んや。翟の所謂る忠臣なる者を以てせば、上に過ち有れば則ち之を微にして以て諌め、己に善有れば則ち之を上に訪ねて、敢えて以て外に告ぐる無く、其の邪を匡して其の善に入り、尚びて下に比する無く、美善を上に在らしめて怨讐を下に在らしめ、安樂を上に在らしめて憂慼を臣に在らしむ。此れ翟の忠臣と謂う者なり」と。
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『武士道』第九章 忠節・支那は孝を本とし日本は忠を本とす此れと等しく、日本人の懐抱する如き忠節は、国を異にして之を頌するものの、ほとんど稀なるを見ん。然れども此れ、吾人の観念の非なるが故にあらずして、却つて彼れにありては既に之を忘却せるが故にして、又た日本人の忠節の念に深厚なるは、他国の未だ容易に企及する能はざるものあるが為なるなからんか。グリフィス氏が、支那に在りては孔教は孝を以て百行の基と為し、日本に在りては忠を以て本と為す、と説けるは真に然り。予は今ここに、読者の或は吃驚酸鼻すべきを顧みず、シェイクスピアの所謂『落魄の主君に仕へて艱苦をつぶさにし』、以て『稗史に名を得たる』忠臣の物語を叙せん。其物語は、我国史を飾れる清廉高義の人格、菅原道真を寓せるものなり。
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『韓非子』初見秦第一然り而して兵甲頓れ、士民病み、蓄積索き、田疇荒れ、囷倉虚しく、四隣の諸侯服せず、霸王の名成らず。此れ異なる故無し、其の謀臣皆な其の忠を尽くさざればなり。
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葉隠・聞書第一忠臣は孝子の門に尋ねよとあり。随分(ずいぶん)心を尽くして孝行すべき事なり。奉公に精を出す人は自然にはあれども、孝行に精出す人は稀なり。よき者には他人も懇(ねんご)ろに、亡き後にて残り多く、孝行に精出す人は稀なり。無理なる人、無理なる親にてなくば知れまじきなり。
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