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洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條

光宗御位、復官、天啓元年、遼陽陷、以才改兵部職方主事、閣臣孫承宗理兵部事、推心任之、及閱視關門、以忠節從出督師、復表爲贊畫、拓地四百、收復城堡數十、承宗倚之若左右手、在關四年、承宗謝事、忠節亦告歸、崇禎元年、起復再請歸、九年七月、淸兵攻定興、忠節在江村、白父請入扞城、父許之、與里居知州薛一鶚等共守、六日城破、忠節不屈死之、家人奔告其父、父曰、嗟乎、吾兒素以身許國、今果死、吾復何憾乎、忠節少讀傳習錄、而覺此心之無隔礙也、故人問其何所授受、曰、卽謂得之於陽明可也、

新字:光宗御位、復官、天啓元年、遼陽陥、以才改兵部職方主事、閣臣孫承宗理兵部事、推心任之、及閲視関門、以忠節従出督師、復表為賛画、拓地四百、収復城堡数十、承宗倚之若左右手、在関四年、承宗謝事、忠節亦告帰、崇禎元年、起復再請帰、九年七月、清兵攻定興、忠節在江村、白父請入扞城、父許之、与里居知州薛一鶚等共守、六日城破、忠節不屈死之、家人奔告其父、父曰、嗟乎、吾児素以身許国、今果死、吾復何憾乎、忠節少読伝習録、而覚此心之無隔礙也、故人問其何所授受、曰、即謂得之於陽明可也、

書き下し

光宗位に御して、官に復す。天啓元年、遼陽陥る。才を以て兵部職方主事に改む。閣臣孫承宗、兵部の事を理め、心を推して之に任ず。関門を閲視するに及び、忠節を以て従ひ出でしめ、督師となるや、復た表して賛画と為す。地を拓くこと四百、城堡を収復すること数十、承宗之に倚ること左右の手の若し。関に在ること四年、承宗事を謝し、忠節も亦告げて帰る。崇禎元年、起復せられ再び帰らんことを請ふ。九年七月、清兵定興を攻む。忠節、江村に在り、父に白して入りて城を扞がんことを請ふ。父之を許す。里居の知州薛一鶚等と共に守る。六日にして城破れ、忠節屈せずして之に死す。家人奔りて其の父に告ぐ。父曰く、嗟乎、吾が児素より身を以て国に許す、今果たして死す、吾復た何をか憾みんやと。忠節少くして伝習録を読み、此の心の隔礙無きを覚ゆ。故に人其の授受する所を問へば、曰く、即ち之を陽明に得たりと謂ひて可なりと。

現代語訳

光宗が即位すると官に復した。天啓元年(1621)、遼陽が陥落した。その才能によって兵部職方主事に改任された。内閣の孫承宗が兵部の事務を取りしきり、真心から彼を信任した。孫承宗が山海関を視察するときには忠節を従わせ、督師となるとまた上表して賛画(参謀)とした。四百(里)の地を開き、城砦数十を取り戻し、承宗は彼を左右の手のように頼りにした。関に四年いて、承宗が職を辞すと、忠節も願い出て郷里に帰った。崇禎元年(1628)、再び起用されたが、また帰郷を願い出た。崇禎九年七月、清の兵が定興を攻めた。忠節は江村にいたが、父に申し出て城に入り守ることを願い、父はこれを許した。郷里に住む元知州の薛一鶚らとともに守ったが、六日目に城は破れ、忠節は屈せずに死んだ。家の者が走って父に知らせると、父は言った。「ああ、わが子はふだんから身を国にささげると誓っていた。いまやはり死んだ。私に何の心残りがあろうか。」忠節は若いころ『伝習録』を読み、この心に隔てやさわりがないことを悟った。それで人がその学問の伝授を尋ねると、「陽明から得たと言ってよい」と答えた。

解説

鹿善継の略伝の後半である。孫承宗の参謀として遼東の失地を回復し、上司が退くと自らも退き、晩年は清軍の攻撃から郷里の城を守って死んだ。父が「素より身を国に許す」と言って嘆かなかったという話は、生死を一にするという中斎の主題に重なる。師承を問われて、『伝習録』を読んで心の隔てがないと悟ったから陽明に得たと言ってよい、と答えたのも、学統より自得を重んじる陽明学らしい。肩書や系譜ではなく、自分で得た確信で動く人の強さを示している。

この章句が説くこと

生死良知自得陽明学忠鹿善継

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