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洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條

東廓先生、天姿純粹、居家以孝友稱、出陽明子門、宸濠反、與陽明子軍事、嘉靖三年、世宗欲去興獻帝本生之稱、東廓疏諫忤旨、下詔獄拷掠、遂謫遐方、於此廢淫祠、建復初書院、與學者講授其間、聞陽明子卒、爲位哭、服心喪、召爲司經局洗馬、東廓以太子幼未能出閣、乃與霍韜上聖功圖以諷諫、帝以爲謗訕、幾得罪、九廟災、東廓直言、帝大怒、落職歸、陽明子嘗稱之曰、有若無、實若虛、犯而不校、謙之近之矣、其子善孫德涵德溥等、皆守良知之學、不落家聲、

新字:東廓先生、天姿純粋、居家以孝友称、出陽明子門、宸濠反、与陽明子軍事、嘉靖三年、世宗欲去興献帝本生之称、東廓疏諫忤旨、下詔獄拷掠、遂謫遐方、於此廃淫祠、建復初書院、与学者講授其間、聞陽明子卒、為位哭、服心喪、召為司経局洗馬、東廓以太子幼未能出閣、乃与霍韜上聖功図以諷諫、帝以為謗訕、幾得罪、九廟災、東廓直言、帝大怒、落職帰、陽明子嘗称之曰、有若無、実若虚、犯而不校、謙之近之矣、其子善孫徳涵徳溥等、皆守良知之学、不落家声、

書き下し

東廓先生は、天資純粋にして、家に居りては孝友を以て称せらる。陽明子の門に出づ。宸濠反するや、陽明子の軍事に与る。嘉靖三年、世宗、興献帝の本生の称を去らんと欲す。東廓、疏して諫め旨に忤ひ、詔獄に下されて拷掠せられ、遂に遐方に謫せらる。此に於いて淫祠を廃し、復初書院を建て、学者と其の間に講授す。陽明子の卒するを聞き、位を為りて哭し、心喪に服す。召されて司経局洗馬と為る。東廓、太子幼くして未だ閣を出づる能はざるを以て、乃ち霍韜と聖功図を上りて以て諷諫す。帝以て謗訕と為し、幾ど罪を得んとす。九廟災あり、東廓直言す。帝大いに怒り、職を落として帰る。陽明子嘗て之を称して曰く、有れども無きが若く、実つれども虚しきが若く、犯されて校いず、謙之之に近しと。其の子善、孫徳涵・徳溥等、皆良知の学を守り、家声を落とさず。

現代語訳

東廓先生(鄒守益)は生まれつきの資質が純粋で、家では孝行と兄弟の友愛で知られた。陽明子の門から出た人である。宸濠(寧王朱宸濠)が反乱を起こしたとき、陽明子の軍事に加わった。嘉靖三年(1524)、世宗が興献帝(世宗の実父)の「本生」という呼び名を取り去ろうとしたとき、東廓は上疏して諫め、帝の意に逆らって詔獄に下され拷問を受け、ついに遠方へ流された。その地で淫祠(いかがわしい祠)を廃し、復初書院を建てて、学ぶ者たちとそこで講義した。陽明子の死を聞くと、位牌を設けて哭し、心喪に服した。召されて司経局洗馬(皇太子の書籍係)となった。東廓は太子が幼くてまだ東宮を出て学べないことから、霍韜とともに『聖功図』をたてまつって遠回しに諫めた。帝はこれを誹謗とみなし、あやうく罪に問われるところだった。九廟(皇室の祖廟)が火災にあったとき、東廓は直言し、帝は大いに怒って、職を解かれて郷里に帰った。陽明子はかつて彼を称えて、「有っても無いかのように、満ちていても空であるかのようにし、害を加えられても仕返ししない(『論語』泰伯篇の曾子の言葉)。謙之はこれに近い」と言った。その子の善、孫の徳涵・徳溥らも、みな良知の学を守り、家の名声を落とさなかった。

解説

陽明の高弟鄒守益の略伝である。寧王の乱で師の軍事を助け、大礼の議では世宗の意に逆らって投獄・左遷され、流された先でも書院を建てて講学し、のちも直言で職を失った。陽明が『論語』の「犯されて校いず」を引いて称えたように、温和で謙虚でありながら、言うべきことは言う人物として描かれる。中斎が良知の学を行いで示そうとしたことがよくわかる一節であり、穏やかさと直言は両立するという点は、今の職場で上に意見する者の心構えとしても読める。

この章句が説くこと

良知陽明学直言謙虚孝鄒守益

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