洗心洞箚記 / 卷上・第百七十六條
嗚呼、孔子之氣象德容、子思道盡之矣、其言曰、唯天下至聖、爲能聰明睿知、足以有臨也、寬裕溫柔、足以有容也、發強剛毅、足以有執也齊莊中正、足以有敬也、文理密察、足以有別也、溥博淵泉、而時出之、如其門弟子、則不能兼之、而只主一、主一故罷矣、不主一而溥博淵泉、而時出之、則與太虛同體者矣乎、故孔子卽不罷也、卽天也、其賢於堯舜、豈但文字貽於萬世而已哉、
新字:嗚呼、孔子之気象徳容、子思道尽之矣、其言曰、唯天下至聖、為能聰明睿知、足以有臨也、寛裕温柔、足以有容也、発強剛毅、足以有執也斉荘中正、足以有敬也、文理密察、足以有別也、溥博淵泉、而時出之、如其門弟子、則不能兼之、而只主一、主一故罷矣、不主一而溥博淵泉、而時出之、則与太虚同体者矣乎、故孔子即不罷也、即天也、其賢於堯舜、豈但文字貽於万世而已哉、
書き下し
嗚呼、孔子の気象徳容は、子思之を道ひ尽くせり。其の言に曰く、「唯天下の至聖のみ、能く聡明睿知にして、以て臨むこと有るに足るなり。寛裕温柔、以て容るること有るに足るなり。発強剛毅、以て執ること有るに足るなり。斉荘中正、以て敬すること有るに足るなり。文理密察、以て別つこと有るに足るなり。溥博淵泉にして、時に之を出だす」と。其の門弟子の如きは、則ち之を兼ぬること能はずして、只一を主とす。一を主とする故に罷む。一を主とせずして溥博淵泉にして、時に之を出だせば、則ち太虚と体を同じくする者か。故に孔子は即ち罷まざるなり、即ち天なり。其の堯舜より賢れること、豈に但だ文字万世に貽るのみならんや。
現代語訳
ああ、孔子の気象と徳のある容姿は、子思が言い尽くしている。その言葉はこうである(『中庸』)。「ただ天下の至聖だけが、聡明で叡知に満ちて人々に臨むことができる。寛やかで温柔であって人々を包容することができる。奮い立ち強く剛く毅くて、堅く執り守ることができる。整っておごそかで中正であって、敬むことができる。筋目が明らかで細やかに察して、物事を区別することができる。広く大きく深い泉のようであって、時に応じてこれを出す。」孔子の門弟子たちはこれを兼ねることができず、ただ一つを主とした。一つを主とするから行き詰まる。一つを主とせず、広く大きく深い泉のようで、時に応じてこれを出すならば、太虚と体を同じくする者であろう。だから孔子は行き詰まらない。すなわち天である。孔子が堯・舜よりまさっているのは、ただ文字を万世に遺したことだけであろうか。
解説
この章句が説くこと
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