洗心洞箚記 / 卷上・第百六十二條
程朱在當時、不能免於奸人陳公輔何若王淮陳賈等之讒毀誣妄、而曲學僞學之禁、至詔諭於天下、何其悖罔之極乎、然而天定則讒毀逞志一時者、皆蟲滅草亡、而程朱之學、與天地日月、爭悠久光明、不亦大矣乎、史臣嘗論程學之禁曰、大抵聖賢之道、不行於當時、而行於後世者、理勢然也、高宗但知尊孔孟、而不知尊伊川、非理勢乎、正使孔孟在當時、亦不見尊於高宗、夫何怪哉、史臣嘗又論朱學之禁曰、王淮以唐仲友之故、深怨朱子、欲謀沮之、由是陳賈鄙夫、趨順風旨、上章詆毀、厚誣聖賢、嗚呼、以道學爲詭異、其欺天罔人、莫此爲尤、自是道學之名、貽禍於世矣、雖然天之未喪斯文、匡人其如予何、吾道如靑天白日、大明於世、一二狗彘所謗訕哉、史臣之論辨、可謂明快痛切無餘蘊矣、
新字:程朱在当時、不能免於奸人陳公輔何若王淮陳賈等之讒毀誣妄、而曲学偽学之禁、至詔諭於天下、何其悖罔之極乎、然而天定則讒毀逞志一時者、皆虫滅草亡、而程朱之学、与天地日月、争悠久光明、不亦大矣乎、史臣嘗論程学之禁曰、大抵聖賢之道、不行於当時、而行於後世者、理勢然也、高宗但知尊孔孟、而不知尊伊川、非理勢乎、正使孔孟在当時、亦不見尊於高宗、夫何怪哉、史臣嘗又論朱学之禁曰、王淮以唐仲友之故、深怨朱子、欲謀沮之、由是陳賈鄙夫、趨順風旨、上章詆毀、厚誣聖賢、嗚呼、以道学為詭異、其欺天罔人、莫此為尤、自是道学之名、貽禍於世矣、雖然天之未喪斯文、匡人其如予何、吾道如青天白日、大明於世、一二狗彘所謗訕哉、史臣之論弁、可謂明快痛切無余蘊矣、
書き下し
程朱は当時に在りて、奸人陳公輔・何若・王淮・陳賈等の讒毀誣妄を免るること能はず、而して曲学偽学の禁、詔して天下に諭すに至る、何ぞ其の悖罔の極なるや。然り而して天定まれば則ち讒毀して志を一時に逞しくする者は、皆虫のごとく滅し草のごとく亡び、而して程朱の学は、天地日月と悠久光明を争ふ、亦大ならずや。史臣嘗て程学の禁を論じて曰く、「大抵聖賢の道、当時に行はれずして、後世に行はるるは、理勢然るなり。高宗但だ孔孟を尊ぶを知りて、伊川を尊ぶを知らざるは、理勢に非ずや。正使孔孟当時に在るとも、亦高宗に尊ばれざらん、夫れ何ぞ怪しまんや」と。史臣嘗て又朱学の禁を論じて曰く、「王淮唐仲友の故を以て、深く朱子を怨み、之を沮まんと謀らんと欲す。是に由りて陳賈鄙夫、風旨に趨順し、上章して詆毀し、厚く聖賢を誣ふ。嗚呼、道学を以て詭異と為すは、其の天を欺き人を罔すること、此より尤なるは莫し。是より道学の名、禍を世に貽す。然りと雖も天の未だ斯文を喪ぼさざる、匡人其れ予を如何せん。吾が道は青天白日の如く、大いに世に明らかなり、一二の狗彘の謗訕する所ならんや」と。史臣の論弁、明快痛切にして余蘊無しと謂ふべし。
現代語訳
程子(程頤)と朱子は当時、陳公輔・何若・王淮・陳賈ら奸人の中傷と誣告を免れることができず、「曲学」「偽学」の禁令が詔として天下に布告されるまでに至った。なんとでたらめの極みであろうか。しかし天の定めが落ち着けば、中傷して一時に思いを遂げた者たちは皆、虫のように滅び草のように亡び、程朱の学は天地日月と悠久と光明を争うほどになった。なんと大きなことではないか。史臣はかつて程学の禁を論じて言った。「おおよそ聖賢の道が当時に行われず後世に行われるのは、道理と時勢がそうさせるのである。(宋の)高宗が孔孟を尊ぶことだけを知って伊川(程頤)を尊ぶことを知らなかったのは、道理と時勢ではないか。たとえ孔孟が当時いたとしても、やはり高宗には尊ばれなかったろう。何を怪しむことがあろう。」史臣はまた朱学の禁を論じて言った。「王淮は唐仲友の一件のために深く朱子を怨み、これを阻もうと謀った。そこで陳賈という卑しい男が、その意向に迎合して上奏して誹謗し、ひどく聖賢を誣いた。ああ、道学を怪しげなものとするのは、天を欺き人をだますこと、これより甚だしいものはない。これ以来、道学という名が世に禍を残した。しかし天がまだこの文(道)を滅ぼさないなら、匡の人々が私をどうできようか。わが道は青空の白日のように世に大いに明らかであり、一人二人の犬や豚のような者がそしってどうなるものか。」史臣の論弁は、明快で痛切で、言い残したところがないと言える。
解説
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