洗心洞箚記 / 卷上・第百五十九條
盜跖篇、雖固寓言、其對孔子敢論之言言、是皆古今常人不言之深情、而爲跖特代之言者耳、而世之不甘受敎於聖賢者、全在此矣、自昔傳蒙莊能道人情、誠非虛言也、
新字:盗跖篇、雖固寓言、其対孔子敢論之言言、是皆古今常人不言之深情、而為跖特代之言者耳、而世之不甘受教於聖賢者、全在此矣、自昔伝蒙荘能道人情、誠非虚言也、
書き下し
盗跖篇は、固より寓言なりと雖も、其の孔子に対して敢へて論ずるの言言、是れ皆古今常人の言はざる深情にして、跖の為に特に之に代りて言ふ者のみ。而して世の教を聖賢に受くるに甘んぜざる者は、全く此に在り。昔より蒙荘能く人情を道ふと伝ふるは、誠に虚言に非ざるなり。
現代語訳
『荘子』盗跖篇は、もとより寓話ではあるが、盗跖が孔子に向かって大胆に論じる言葉の一つ一つは、どれも昔も今も普通の人が口にはしない胸の奥の本音であり、それを荘子が跖のためにわざわざ代わって言わせたものにすぎない。世の中で聖賢の教えを受けることに甘んじない者の心は、すべてここにある。昔から蒙の荘周(荘子)はよく人情を言い当てると伝えられているが、まことに嘘ではない。
解説
本条は、『荘子』盗跖篇を寓言と知りつつ、そこに語られる盗跖の言葉を、常人が口に出さない本音の代弁として読む。聖賢の教えを嫌う人の心は、欲望を満たし短い生を楽しめという盗跖の論にすべて表れているという。荘子が人情をよく言い当てると評されるのはそのためだ、と中斎は認める。この視点は後の第百六十二条で、程朱の学が偽学とされた由来を論じる際に大きく展開される。耳に痛い教えに反発したくなるとき、自分の中で何が語っているのかを見つめるきっかけになる一節である。
この章句が説くこと
人情本音盗跖荘子欲聖賢
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷上・第百六十二條然れども奸人曲学偽学を以て之を抹殺するは、何の故ぞや。吾請ふ一言を以て其の由を弁ぜん。夫れ聖賢の言行は、大いに俗情に反す。俗情とは何ぞ。盗跖の云ふ所是れなるのみ。其の言に曰く、「人の情、目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、気は盈たんと欲す。人上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十、病瘦死喪憂患を除けば、其の中口を開きて笑ふ者、一月の中四五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まり無く、人の死する者は時有り。有時の具を操りて、無窮の間に託す、忽然として騏驥の隙を過ぐるに異なる無し。其の志意を説ばしめ、其の寿命を養ふこと能はざる者は、皆道に通ずる者に非ざるなり。丘の言ふ所は、皆吾の棄つる所なり」と。此れ荘子の寓言なりと雖も、今古貴賤上下の心口に相期する所の者は、斯の数語を出でざるなり。而して聖賢の道は則ち之に反す。礼に非ざれば視聴言動すること勿く、而して志気常に内に収めて以て放たず。病瘦死喪憂患の中に在りと雖も、皆其の心を尽くすを以て道と為し、而して未だ嘗て是を以て累と為さざるなり。而して常人の口を開きて笑ふ者は、淫戯放逸の事に非ざるは莫きなり。聖賢之に遭へば則ち決して笑はず、却つて蹙頻攢眉して、以て憂愁悲哀する者多し。
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荘子・盗跖孔子聴かず。顔回御と為り、子貢右と為り、往きて盗跖に見ゆ。盗跖乃ち方(まさ)に卒徒を太山の陽に休ませ、人の肝を膾(なます)にして之を餔(くら)う。孔子車を下りて前み、謁者に見えて曰く、「魯人孔丘、将軍の高義を聞き、敬みて謁者に再拝す」と。謁者入りて通ず。盗跖之を聞きて大いに怒る。目は明星の如く、髪は上りて冠を指す。曰く、「此れ夫の魯国の巧偽人(こうぎじん)孔丘に非ずや。我が為に之に告げよ。『爾(なんじ)は言を作り語を造り、妄りに文・武を称す。枝木の冠を冠し、死牛の脅(あばら)を帯とし、多辞繆説(びゅうせつ)、耕さずして食らい、織らずして衣る。唇を揺らし舌を鼓し、擅(ほしいまま)に是非を生じ、以て天下の主を迷わし、天下の学士をして其の本に反らざらしむ。妄りに孝弟を作りて、封侯富貴に儌倖(ぎょうこう)する者なり。子の罪は大にして極めて重し。疾(と)く走りて帰れ。然らずんば、我将に子の肝を以て昼餔(ちゅうほ)の膳に益さんとす』と」。
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