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洗心洞箚記 / 卷上・第百五十一條

而如其升堂入室之諸賢出焉、則孔子晚年之事、而其少孔子、大抵不下三四十如五十也、故孔子四十歲之時、顏子十歲、子貢九歲、有子七歲、閔子五歲、而仲弓冉有共七歲、皆丱角童也、冉伯牛宰我年齒雖不見載籍、恐與數子不相遠矣、如子游子夏則未生矣、而傳衣鉢之曾子及子張亦未生也、且子路雖少九歲、執贄益尤晚矣、自餘七十子三千之徒、長孔子、貴乎孔子者、未之有也、而七十三千、雖其數如多、視之乎天下四海、則特大倉一粒而已矣、豈多乎哉、夫天下之大、四海之廣、而當時何爲入其門受其敎者乃少矣耶、是吾所以疑之不解乎心也、

新字:而如其升堂入室之諸賢出焉、則孔子晩年之事、而其少孔子、大抵不下三四十如五十也、故孔子四十歳之時、顔子十歳、子貢九歳、有子七歳、閔子五歳、而仲弓冉有共七歳、皆丱角童也、冉伯牛宰我年歯雖不見載籍、恐与数子不相遠矣、如子游子夏則未生矣、而伝衣鉢之曽子及子張亦未生也、且子路雖少九歳、執贄益尤晩矣、自余七十子三千之徒、長孔子、貴乎孔子者、未之有也、而七十三千、雖其数如多、視之乎天下四海、則特大倉一粒而已矣、豈多乎哉、夫天下之大、四海之広、而当時何為入其門受其教者乃少矣耶、是吾所以疑之不解乎心也、

書き下し

而して其の堂に升り室に入るの諸賢の如き出づるは、則ち孔子晩年の事にして、其の孔子より少きこと、大抵三四十如しくは五十を下らざるなり。故に孔子四十歳の時、顔子は十歳、子貢は九歳、有子は七歳、閔子は五歳、而して仲弓・冉有は共に七歳、皆丱角の童なり。冉伯牛・宰我は年歯載籍に見えずと雖も、恐らくは数子と相遠からず。子游・子夏の如きは則ち未だ生まれず、而して衣鉢を伝ふるの曾子及び子張も亦未だ生まれざるなり。且つ子路は少きこと九歳なりと雖も、贄を執ること益尤も晩し。自余七十子三千の徒、孔子より長じ、孔子より貴き者、未だ之れ有らざるなり。而して七十三千、其の数多きが如しと雖も、之を天下四海に視れば、則ち特に大倉の一粒のみ。豈に多からんや。夫れ天下の大、四海の広き、而して当時何為れぞ其の門に入り其の教を受くる者乃ち少きや。是れ吾の之を疑ひて心に解けざる所以なり。

現代語訳

そして堂に昇り室に入る(奥義に達した)弟子たちが現れたのは孔子の晩年のことで、彼らは孔子よりたいてい三、四十歳、あるいは五十歳も若かった。だから孔子が四十歳のとき、顔子(顔回)は十歳、子貢は九歳、有子(有若)は七歳、閔子(閔子騫)は五歳、仲弓と冉有はともに七歳で、みな角髪を結った子どもであった。冉伯牛と宰我は年齢が記録に見えないが、おそらくこの人たちとそう違わないだろう。子游・子夏はまだ生まれておらず、衣鉢を伝えた曾子や子張もまだ生まれていなかった。また子路は九歳若いだけだが、入門の礼をとったのはずっと遅い。そのほか七十人の高弟、三千人の門人で、孔子より年長の者、孔子より身分の高い者はいなかった。七十人、三千人という数は多いようだが、天下四海から見れば大きな倉の中の一粒にすぎない。どうして多いと言えようか。天下はこれほど大きく、四海はこれほど広いのに、当時なぜその門に入り教えを受ける者がこれほど少なかったのか。これが私が疑って心に解けなかったところである。

解説

ここで中斎は、孔門の高弟たちの年齢を数え上げて、孔子の教えを受けたのはほとんどが孫ほど若い人々だったことを示す。顔回や子貢らは孔子四十歳のとき十歳前後で、曾子や子游・子夏はまだ生まれていない。年長者や貴人の弟子はおらず、三千の徒も天下から見れば倉の一粒にすぎない。年齢の数字は伝承に拠るものだが、問いの立て方は具体的で、聖人の道がなぜ同時代に広まらなかったのかを事実から問い直そうとする姿勢が見える。新しい学びに集まるのが若い世代ばかりという現象は、今の組織や学校にもそのまま見られる。

この章句が説くこと

孔子門人教え疑問道顔回

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