洗心洞箚記 / 卷上・第百三十六條
或問、子嘗擧谷神爲說、則取老子乎、曰先聖詢芻蕘、而況賢哲乎、然賢哲之語、而有病則不取、而況芻蕘乎、橫渠先生曰、大率天之爲德、虛而善應、其應非思慮聰明可求、故謂之神、老子況諸谷、以此、然則奚啻吾、橫渠亦云爾、子猶疑我乎、
新字:或問、子嘗挙谷神為説、則取老子乎、曰先聖詢芻蕘、而況賢哲乎、然賢哲之語、而有病則不取、而況芻蕘乎、横渠先生曰、大率天之為徳、虚而善応、其応非思慮聰明可求、故謂之神、老子況諸谷、以此、然則奚啻吾、横渠亦云爾、子猶疑我乎、
書き下し
或ひと問ふ、子嘗て谷神を挙げて説を為す、則ち老子を取るか。曰く、先聖は芻蕘に詢ふ、而るを況んや賢哲をや。然れども賢哲の語も、病有れば則ち取らず、而るを況んや芻蕘をや。横渠先生曰く、大率天の徳為るや、虚にして善く応ず、其の応は思慮聡明の求むべきに非ず、故に之を神と謂ふ。老子之を谷に況ふるは、此を以てなり、と。然らば則ち奚ぞ啻に吾のみならんや、横渠も亦爾か云ふ。子猶ほ我を疑ふか。
現代語訳
ある人が問うた。「あなたはかつて谷神(『老子』の語)を挙げて説を立てたが、それは老子の説を取るのか。」答えて言う。「昔の聖人は草刈りや木こりにさえ意見を問うた。まして賢者や哲人の言葉ならなおさらである。しかし賢哲の言葉でも、欠点があれば取らない。まして草刈りや木こりの言葉ならなおさらである。横渠先生(張載)は『おおよそ天の徳というものは、虚であってよく応じる。その応じ方は思慮や聡明で求められるものではない。だからこれを神という。老子がこれを谷にたとえたのは、このためである』と言った。それなら私だけではない、横渠もそう言っている。あなたはまだ私を疑うのか。」
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷上・第一條天は特に上に在る蒼蒼たる太虚のみにあらざるなり。石間の虚、竹中の虚と雖も、亦天なり。況んや老子の云ふ所の谷神をや。谷神とは、人心なり。故に人心の妙は天と同じ。聖人に於て験すべし。常人は則ち虚を失ふ。焉ぞ之を語るに足らんや。
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『洗心洞箚記』卷下・第百六條張子曰く、太虚は気無きこと能はず、気は聚まりて万物と為らざること能はず、万物は散じて太虚と為らざること能はず。是に循ひて出入するは、是れ皆已むを得ずして然るなり。然らば則ち聖人の道を其の間に尽くし、兼体して累はされざる者は、神を存すること其れ至れり。彼の寂滅を語る者は、往きて反らず。生に徇ひ、有に執する者は、物として化せず。二者間有りと雖も、道を失ふを以て言へば則ち均し。聚まるも亦た吾が体、散ずるも亦た吾が体。死の亡びざるを知る者は、与に性を言ふべし、と。謹んで案ずるに、太虚なり、気なり、万物なり、道なり、神なり、皆一物にして、聚散の殊なるのみ。要するに太虚の変化に帰するなり。故に人神を存して以て性を尽くせば、則ち散じて死すと雖も、其の方寸の虚は、太虚と混一して同流し、朽ちず亡びず。人如し虚を失はずして此に至れば、亦た大なり盛んなり。而して老仏倶に道に暗し。故に仏は散ずるを知りて聚まるを知らず、是れ陰を知りて陽を知らざる者なり。老は聚まるを知りて散ずるを知らず、是れ陽を知りて陰を知らざる者なり。各々一偏に陥る。豈に聖人の陰を知り陽を知り、死を知り生を知ると日を同じうして語るべけんや。
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老子 第6章谷の神死せず、是れ玄牝と謂う。玄牝の門、是れ天地の根と謂う。綿々として若(ごと)く存して、以て用うるに勤せず。
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『洗心洞箚記』卷上・第九十五條説卦に曰く、山沢気を通ず、と。象に曰く、山上に沢有るは咸なり、君子以て虚にして人を受く、と。夫れ山なる者は、実物にして虚に非ざるなり。而るに沢の気其の頂に徹りて、草木滋潤して生育す。是に由りて之を観れば、則ち特だ虚のみ虚為るにあらず、実物と雖も皆虚なり。故に君子其の象を観て、心太虚に帰して、以て天下の善を容るれば、則ち天下の善、皆我が有と為る、豈に亦大ならずや。文字の小異同を争ふ者は、実に同穴の闘鼠なり。然り而して経世の大要に於ては、則ち心を平らかにして以て弁ぜざるべからざるなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百十條張子曰く、太虚なる者は、自然の道なり、之を行ふの要は思ふに在り、故に曰く、誠を思ふ、と。又曰く、誠なる者は則ち実なり、太虚なる者は天の寔なり。万物は足るを太虚に取り、人も亦た太虚より出づ。太虚なる者は、心の寔なり、と。又曰く、天地の道は、至虚を以て実と為さざるは無し。人須らく虚中に於て実を求め出すべし。聖人は虚の至りなり、故に其の善を択ぶこと自ら精し。心の虚なること能はざる者は、物の榛礙する有ればなり。金鉄も時有りて腐り、山岳も時有りて摧く。凡そ形有るの物は即ち壊れ易し。惟だ太虚のみ動揺無し、故に至実と為す、と。
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『洗心洞箚記』卷下・第十三條或ひと問ふ、陽明先生も亦明らかに太虚を言ふこと、有りや。曰く、有り。語録に曰く、聖人は只是れ他の良知の本色に還し、更に些子の意を著け在らず。良知の虚は、便ち是れ天の太虚、良知の無は、便ち是れ太虚の無形なり。日月風雷山川民物、凡そ貌象形色有るもの、皆太虚無形の中に在りて発用流行し、未だ嘗て天の障礙と作り得ず。聖人は只是れ其の良知の発用に順ひ、天地万物、倶に我が良知の発用流行の中に在り、何ぞ嘗て又一物の良知の外に超えて、能く障礙と作り得る有らんと。此れ豈に太虚を道ふに非ずや。吾が太虚の説も、皆亦此を祖述し来たる。而して張子の太虚も、復た之に異なること無きなり。人如し無欲ならば、則ち独自に了悟せん。否らずんば必ず老仏に類すと疑ふ有らん。辨ぜずして可なり。問ふ、書を読みて然る後に良知を致すか。曰く、否、書を読むは便ち是れ良知を致すなり。
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