洗心洞箚記 / 卷上・第百三十三條
張楊園學於念臺劉子、而以戈入室者也、何者、以良知爲直情經行、吁、何其言之悖也、夫良知、不學不慮之良心耳、性也、非情也、而直情乃非性矣、然以性之良爲直情何也、是全係乎愛惡之念、故其誣一至于此、可不愼哉、這裏微有禍福生死之念在焉、則格物之物字、決不能令曉明白也、如無其念、則心解了、
新字:張楊園学於念台劉子、而以戈入室者也、何者、以良知為直情経行、吁、何其言之悖也、夫良知、不学不慮之良心耳、性也、非情也、而直情乃非性矣、然以性之良為直情何也、是全係乎愛悪之念、故其誣一至于此、可不慎哉、這裏微有禍福生死之念在焉、則格物之物字、決不能令暁明白也、如無其念、則心解了、
書き下し
張楊園は念台劉子に学びて、戈を以て室に入る者なり。何となれば、良知を以て直情径行と為す。吁、何ぞ其の言の悖れるや。夫れ良知は、学ばず慮らざるの良心のみ、性なり、情に非ざるなり。而して直情は乃ち性に非ず。然るに性の良を以て直情と為すは何ぞや。是れ全く愛悪の念に係る、故に其の誣ふること一に此に至る。慎まざるべけんや。這裏微かに禍福生死の念の在る有れば、則ち格物の物の字、決して暁明白ならしむる能はざるなり。如し其の念無くんば、則ち心解し了らん。
現代語訳
張楊園(張履祥)は念台劉子(劉宗周)に学びながら、戈を持って師の家に入る(師の学に刃を向ける)者である。なぜなら、良知を「感情のままにまっすぐ行うこと」としたからである。ああ、なんとその言葉の道理に背くことか。そもそも良知とは、学ばず考えずともある良心であり、性であって情ではない。そして感情のままに行うことは性ではない。それなのに性の良きものを直情とするのはなぜか。それはまったく好き嫌いの念によるものであり、だからその誣いがここまで至ったのである。慎まないでいられようか。ここにわずかでも禍福や生死の念があれば、格物の「物」の字を決してはっきり理解させることはできない。もしその念がなければ、心はすっかり解けるだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷上・第百條良知の底蘊を語れば、人以て苦難とし、良知の発見を語れば、人以て慢易とす。慢易なる者は、其の誤りや、情識を以て良知と為すに至る。苦難なる者は、其の阻みや、気質を以て謙譲と為すに至る。是れ聖学の世に興らざる所以なり。
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