洗心洞箚記 / 卷上・第三十三條
知是知非、知善知惡、是乃良知之照、而非良知之體也、陽明先生特爲有意欲者權言之也、以燈燭喩良知似矣、而燈燭有起滅、良知無起滅也、以日月喩良知近矣、而日月有晦蝕、良知無晦蝕也、然則以何喩之、無喩者、夫良知只是太虛靈明而已矣、然而有時以燈燭喩之、亦無不可、有時以日月喩之、亦無不可、開導敎誨於中人以下之方法、不可以不如此也、如直以太虛靈明說之、則與魏文侯聽古樂同矣、唯恐臥、唯恐臥故不能入耳存心也、其極至於世無善人、爲人師者、宜用心於敎法矣、
新字:知是知非、知善知悪、是乃良知之照、而非良知之体也、陽明先生特為有意欲者権言之也、以灯燭喩良知似矣、而灯燭有起滅、良知無起滅也、以日月喩良知近矣、而日月有晦蝕、良知無晦蝕也、然則以何喩之、無喩者、夫良知只是太虚霊明而已矣、然而有時以灯燭喩之、亦無不可、有時以日月喩之、亦無不可、開導教誨於中人以下之方法、不可以不如此也、如直以太虚霊明説之、則与魏文侯聴古楽同矣、唯恐臥、唯恐臥故不能入耳存心也、其極至於世無善人、為人師者、宜用心於教法矣、
書き下し
是を知り非を知り、善を知り悪を知るは、是れ乃ち良知の照らすにして、良知の体に非ざるなり。陽明先生特に意欲有る者の為に之を権言するなり。燈燭を以て良知に喩ふるは似たり。而して燈燭は起滅有り、良知は起滅無きなり。日月を以て良知に喩ふるは近し。而して日月は晦蝕有り、良知は晦蝕無きなり。然らば則ち何を以て之を喩へん。喩ふる無き者なり。夫れ良知は只だ是れ太虚の霊明のみ。然り而して時有りて燈燭を以て之を喩ふるも、亦不可無し。時有りて日月を以て之を喩ふるも、亦不可無し。中人以下を開導教誨するの方法、以て此の如くならざるべからざるなり。如し直ちに太虚の霊明を以て之を説かば、則ち魏の文侯の古楽を聴くと同じ。唯だ臥せんことを恐る。唯だ臥せんことを恐るる故に耳に入り心に存すること能はざるなり。其の極は世に善人無きに至る。人の師為る者、宜しく心を教法に用ふべし。
現代語訳
是を知り非を知り、善を知り悪を知るのは、良知の照らす働きであって、良知の本体ではない。陽明先生(王守仁)は、私意や欲のある者のために、特に方便としてそう言ったのである。灯火で良知を喩えるのは似ている。しかし灯火には点いたり消えたりがあるが、良知には点滅がない。日月で良知を喩えるのは近い。しかし日月には陰りや蝕があるが、良知には陰りも蝕もない。では何で喩えればよいか。喩えようのないものである。良知はただ太虚の霊明だけである。けれども、時に灯火で喩えても悪くはなく、時に日月で喩えても悪くはない。中程度以下の人を導き教える方法は、このようでなければならない。もしいきなり太虚の霊明で説けば、魏の文侯が古楽を聴いたときと同じで、ただ眠くなるのを恐れるばかりになる(『礼記』楽記)。眠くなるのを恐れるから、耳に入り心にとどまることができない。その行き着く先は、世に善人がいなくなることである。人の師となる者は、教え方に心を用いなければならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第十三條或ひと問ふ、陽明先生も亦明らかに太虚を言ふこと、有りや。曰く、有り。語録に曰く、聖人は只是れ他の良知の本色に還し、更に些子の意を著け在らず。良知の虚は、便ち是れ天の太虚、良知の無は、便ち是れ太虚の無形なり。日月風雷山川民物、凡そ貌象形色有るもの、皆太虚無形の中に在りて発用流行し、未だ嘗て天の障礙と作り得ず。聖人は只是れ其の良知の発用に順ひ、天地万物、倶に我が良知の発用流行の中に在り、何ぞ嘗て又一物の良知の外に超えて、能く障礙と作り得る有らんと。此れ豈に太虚を道ふに非ずや。吾が太虚の説も、皆亦此を祖述し来たる。而して張子の太虚も、復た之に異なること無きなり。人如し無欲ならば、則ち独自に了悟せん。否らずんば必ず老仏に類すと疑ふ有らん。辨ぜずして可なり。問ふ、書を読みて然る後に良知を致すか。曰く、否、書を読むは便ち是れ良知を致すなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十六條陽明語録に曰く、一友侍す、眉間に憂思有り。先生顧みて他友に謂ひて曰く、良知は固より天に徹し地に徹し、近くは一身に徹す。人一身爽からずんば、許大の事を須ひず、第だ頭上一髪下垂すれば、渾身即ち快からずと為す。此の中那ぞ一物を容れ得んや、と。先生又曰く、其の良知の説に于けるは、百死千難の中より得来たる。是れ容易に見得て此に到るに非ず。此れ本と是れ学者究竟の話頭なり。已むを得ずして人の与に一口に説き尽くす。但だ恐る、学者之を得ること容易にして、只だ一種の光景と做して玩弄し、此の知に孤負せんことを、と。謹んで按ずるに、先生の良知は、易きが如くして難く、難きが如くして亦易し。前の一条を以て之を見れば、則ち光景に庶し、故に易きが如し。然れども一点も心に存せざるに至るは、則ち実に難し。王龍渓・王心斎及び羅近渓三先生の学は、蓋し此よりして入る。後の一条を以て之を見れば、則ち実践より来たる、故に難し。然れども難に甘んじ死を忘るれば、則ち事事妨礙有る無し。易きに非ずや。銭緒山・南瑞泉及び羅念菴三先生の学は、蓋し此よりして入る。其の末学各々弊無きにあらずと雖も、要するに其の性の近きより入りて、学脈を握り、教へを立て功を立つ。豈に先生の余沢に非ずや。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十三條二程子曰く、見聞の知は、乃ち物交はりて知る。徳性の知る所に非ず。徳性の知る所は、聞見を待たずと。又曰く、聞見の知は、徳性の知に非ず。徳性の知る所は、聞見を仮らずと。又曰く、良知良能は、皆由る所無し、乃ち天より出づ、人に係らずと。又曰く、夜気の存する所の者は、良知なり、良能なり。苟も拡めて之を充たし、旦昼の梏する所を化して、夜気の存する所と為せば、然る後以て聖人に至る有るなりと。程子の説く所の四条の知は、皆良知なり。之を拡充すれば則ち聖人に至る、陽明先生より始まるに非ざること、此に於てか又識るべし。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十條周子曰く、惟だ人や、其の秀を得て最も霊なり。形既に生じ、神知を発す。五性感動して、善悪分れ、万事出づと。陽明先生の所謂良知の本体は、即ち此の霊の謂なり。其の所謂致知の知は、乃ち霊の用にして、即ち此の神知を発するの謂なり。其の所謂衆理具はりて万事出づは、即ち此の五性感動して、善悪分れ、万事出づるの謂なり。而して陽明先生の学は、総て心上より流れ出で来りて、外より借り来る者に非ざるなり。即ち周子の学と同一宗なり。故に王弇州曰く、陽明は心訣を直指して、以て上周程の説に合すと。黄石斎曰く、陽明は全く是れ濂渓の学問なりと。嗚呼、二子の言、公正不易の確論なり。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十四條二程子曰く、天下の善悪は皆天理なり。之を悪と謂ふ者は、本より悪なるに非ず、但だ或は過ぎ或は及ばざれば、便ち此くの如し、と。又曰く、聖人は即ち天地なり。天地の中、何物か有らざらん。天地豈に嘗て心有りて善悪を揀別せんや。一切涵容覆載す、但だ之を処するに道有るのみ、と。陽明子の善悪只だ一物の説は、二程子の此の語に根ざして来るなり。而して善悪皆天理の説を以て儒者に語れば、儒者乃ち謂ふ、性は即ち善なるのみ、悪を以て天理と謂ふは可ならんや、と。而して必ず善悪皆天理の説を信ぜず。然れども天の太虚を悟れば、則ち疑ふべき無し。如し太虚を悟らざれば、則ち賢者と雖も猶ほ駭きて信ぜず。故に何ぞ世儒を咎むるに足らんや。其の「但だ之を処するに道有るのみ」の六字、更に味有り。陽明子の致良知も、止だ此の処に在りて観破し了るなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第六十八條陽明先生曰く、嗚呼、如し知を致せば、則ち心悟に存す、致知尽くせりと。夫れ良知は遠ざくべからず、道為るや屢遷る、変動して居らず、六虚に周流し、上下常無く、剛柔相易はり、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のみ。故に良知は即ち易、易は即ち良知、一事として易ならざる無く、一事として良知ならざる無し。故に経礼三百曲礼三千の繁と雖も、只致知の二字を尽くし了る。姑く曲礼中の一事を以て之を道はん。婦人を僕御するには、則ち左手を進め右手を後にす。国君を御するには、則ち右手を進め左手を後にして俯す。一は左手を進め、一は右手を進む。其の条理節文、孰か之をして活動せしむるや。宜しく之を三思すべし。
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