洗心洞箚記 / 卷下・第百三十五條
是故吾先畧其生天生地等之說、只提右三條、以告子弟曰、雖陷溺於慾海、頑劣不靈如市儈、當其爭也、猶曰欺心、曰無天理、則良知照照然可見矣、其責人不責己、特利欲障焉耳、先生拈其鬭爭中之良心、以反喚醒講學諸君子、而又以字喩乞敎之聾瘂、使其自識認其心之良、而稽首再拜以自得、而又問坐禪僧思母之念、使之涕泣拜謝挈鉢而歸矣、其餘答屬官之格物、聽父子之訟、以令慟哭等之事義、旣載于傳習錄、則閱焉者必知之、此皆豈非愚夫婦同的之學、而語小天下莫能破焉之眞修實驗矣乎、子弟輩致心之良知、不怠則終倶得乎大小莫載破之道矣、吁、區區浮論、何足辨哉、
新字:是故吾先略其生天生地等之説、只提右三条、以告子弟曰、雖陥溺於慾海、頑劣不霊如市儈、当其争也、猶曰欺心、曰無天理、則良知照照然可見矣、其責人不責己、特利欲障焉耳、先生拈其闘争中之良心、以反喚醒講学諸君子、而又以字喩乞教之聾瘂、使其自識認其心之良、而稽首再拝以自得、而又問坐禅僧思母之念、使之涕泣拝謝挈鉢而帰矣、其余答属官之格物、聴父子之訟、以令慟哭等之事義、既載于伝習録、則閲焉者必知之、此皆豈非愚夫婦同的之学、而語小天下莫能破焉之真修実験矣乎、子弟輩致心之良知、不怠則終倶得乎大小莫載破之道矣、吁、区区浮論、何足弁哉、
書き下し
是の故に吾先づ其の天を生じ地を生ずる等の説を略し、只だ右の三条を提げて、以て子弟に告げて曰く、慾海に陥溺し、頑劣不霊なること市儈の如しと雖も、其の争ふに当たりてや、猶ほ心を欺くと曰ひ、天理無しと曰ふ。則ち良知照照然として見るべし。其の人を責めて己を責めざるは、特に利欲之を障ふるのみ。先生其の闘争中の良心を拈じて、以て反つて講学の諸君子を喚醒し、而して又字を以て教へを乞ふ聾瘂に喩し、其をして自ら其の心の良を識認せしめて、稽首再拝して以て自得せしめ、而して又坐禅僧の母を思ふの念を問ひ、之をして涕泣拝謝し鉢を挈げて帰らしむ。其の余の属官の格物に答へ、父子の訟を聴きて、以て慟哭せしむる等の事義は、既に伝習録に載す。則ち焉を閲する者必ず之を知らん。此れ皆豈に愚夫婦と同じき的の学にして、小を語れば天下能く破る莫きの真修実験に非ずや。子弟輩心の良知を致して、怠らずんば則ち終に倶に大小載破する莫きの道を得ん。吁、区区たる浮論、何ぞ辨ずるに足らんや。
現代語訳
だから私はまず、良知が天を生み地を生むといった類の説を省いて、ただ右の三条を取り上げ、子弟に告げて言う。欲の海に溺れ、頑なで愚かで霊妙さを失った商人のような者でも、争うときには、なお「心を欺く」と言い、「天理がない」と言う。そこに良知ははっきりと見て取れる。人を責めて自分を責めないのは、ただ利欲がそれを妨げているだけである。先生は争いの中の良心をつまみ出して、かえって講学する君子たちの目を覚まさせ、また文字で教えを乞う聾唖の人を諭して、自分の心の良さを自ら見分けさせ、額を地につけて再拝し自得させた。また坐禅する僧に母を思う心を問うて、涙を流して拝謝させ、鉢を手に帰らせた。そのほか、属官の格物の問いに答えたこと、父子の訴えを聴いて二人を慟哭させたことなどは、すでに『伝習録』に載っているから、読んだ者は必ず知っているだろう。これらはみな、愚かな男女と同じであるものの学であり、「小を語れば天下も割り砕けない」ことの真の修養と実地の験しではないか。子弟たちが心の良知を致して怠らなければ、ついにはみな、大も小も載せきれず割り砕けない道を得るだろう。ああ、取るに足らない浮ついた議論など、どうして論じるに足りようか。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十五條先生三十一歳、嘗て居を西湖に移し、南屏・虎跑の間を往来す。僧の禅坐すること三年、語らず視ざるもの有り。先生喝して曰く、這の和尚終日口巴巴として甚麼をか説く、終日眼睜睜として甚麼をか看る、と。僧驚き起つ。先生其の家を問ふ。対へて曰く、母在る有り、と。曰く、念を起こすや否や、と。対へて曰く、念を起こさざる能はず、と。先生即ち親を愛するの本性を指して之を諭す。僧涕泣して拝謝し、鉢を挈げて帰る。夫れ陽明先生の学は、只だ中庸に所謂大を語れば天下能く載する莫く、小を語れば天下能く破る莫きの二義に止まるのみ。故に能く一以て之を貫く。豈に此に通じて彼に礙げられ、上に明らかにして下に暗き者の如からんや。而るに世先生を以て禅に庶しと為すは、独り大を語れば天下能く載する莫き上に在りて然りと為すのみならず、又其の小を語れば天下能く破る莫きの或いは管せざるに疑ひ有るを以て、故に誣毀此に至る。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十五條陽明語録に曰く、一日市中鬨きて詬る。甲曰く、爾天理無し、と。乙曰く、爾天理無し、と。甲曰く、爾心を欺く、と。乙曰く、爾心を欺く、と。先生之を聞きて、弟子を呼びて曰く、之を聴け、夫の夫啍啍として学を講ずるなり、と。弟子曰く、詬るなり、焉んぞ学ばん、と。曰く、汝聞かずや。天理と曰ひ、心と曰ふ。講学に非ずして何ぞや、と。曰く、既に学べり、焉んぞ詬る、と。曰く、夫の夫や惟だ諸を人に責むるを知りて、諸を己に反すを知らざるが故なり、と。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十六條陽明語録に曰く、一友侍す、眉間に憂思有り。先生顧みて他友に謂ひて曰く、良知は固より天に徹し地に徹し、近くは一身に徹す。人一身爽からずんば、許大の事を須ひず、第だ頭上一髪下垂すれば、渾身即ち快からずと為す。此の中那ぞ一物を容れ得んや、と。先生又曰く、其の良知の説に于けるは、百死千難の中より得来たる。是れ容易に見得て此に到るに非ず。此れ本と是れ学者究竟の話頭なり。已むを得ずして人の与に一口に説き尽くす。但だ恐る、学者之を得ること容易にして、只だ一種の光景と做して玩弄し、此の知に孤負せんことを、と。謹んで按ずるに、先生の良知は、易きが如くして難く、難きが如くして亦易し。前の一条を以て之を見れば、則ち光景に庶し、故に易きが如し。然れども一点も心に存せざるに至るは、則ち実に難し。王龍渓・王心斎及び羅近渓三先生の学は、蓋し此よりして入る。後の一条を以て之を見れば、則ち実践より来たる、故に難し。然れども難に甘んじ死を忘るれば、則ち事事妨礙有る無し。易きに非ずや。銭緒山・南瑞泉及び羅念菴三先生の学は、蓋し此よりして入る。其の末学各々弊無きにあらずと雖も、要するに其の性の近きより入りて、学脈を握り、教へを立て功を立つ。豈に先生の余沢に非ずや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條近渓も是れ亦禅の毀り有りと雖も、皆俗学左袒の論にして、公正の議に非ざるなり。袁中郎曰く、学道の人に至りては、幾句の道理を暁り得、幾件の好事を行ひ得れば、其の世を憤り俗を嫉むこと尤も甚だし。此の処、極微極細にして、最も抜除し難し。若し能く自家の身子を打倒して、心を安んじて世俗の人と一様ならば、上根宿学に非ざれば能はざるなり。此の意、孔老より後、惟だ陽明・近渓のみ庶幾くは之に近しと。然らば則ち其の無我の気象、諸儒に超卓すること亦見るべし。嗚呼、良知は聖学の真訣なり。之を致すの難きに因りて、乃ち病と為り、弊と為る。是の故に学者、良知の固有を恃むべからずして、実に之を致すの功を日用応酬より、読書講武凡百瑣屑の事に至るまで用ゐば、則ち道徳功業、必ず古人に逮ばん。否らずんば万巻を看破すと雖も、游談無根に帰するのみ。亦何ぞ君父に益すること之れ有らん。
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『洗心洞箚記』卷上・第百六十四條此の二条は、二子良知良能を説くの言にして、能く之を観れば、則ち外に求むるの悔、言表に隠然たり。而して学者の問学する所以は、仁と義とに非ずや。真子何と謂ふ。即ち曰く、「仁義豈に孝悌の外に出でんや」と。故に孝悌を外にして仁義を謂ふは則ち霸道にして、堯舜孔孟の学に非ざること、断じて知るべし。殊に真子の「斯の理や」の一言は、上の孝悌仁義を指して言ふ。然らば則ち窮理と云ふも、亦心の理を窮むるのみ。而して許子の云ふ所も亦明確なり。聖人の教は、固有の良知良能を推拡せしむるのみなるを言ふ。如し之を斲喪するに問学を以てせば、則ち彫虫の小技、学校是に於てか壊れ、官路是に於てか乱れ、民人是に於てか嚮ふ方を知らず、風俗是に於てか養ひ得ること能はずと云ふのみ。是に由りて之を観れば、則ち二子尤も学弊を悔いて、之を本心に求むるの意掩ふべからざるなり。是れ陽明先生の三子皆此に見る有りと曰ふ所以なり。問ふ者曰く、「積疑釈然たり」と。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十四條陽明先生語録に曰く、或ひと異端を問ふ。先生曰く、愚夫愚婦と同じき的、是れを同徳と謂ひ、愚夫愚婦と異なる的、是れを異端と謂ふ、と。謹んで按ずるに、世先生の学を以て高妙と為す。故に之を禅と謂ふは甚だ誤れり。能く此の語を観て、以て其の道を学ばば、則ち至浅至近にして、何の高妙と禅と之れ有らん。所謂愚夫婦と同じき的とは何ぞや。是れ其の夜気・親を愛し兄を敬す・善を知り悪を知るの良心に就きて言ふなり。其の良心は、即ち赤子と一般にして、赤子の心は、乃ち聖人の心なり。聖人は特に焉を拡充するのみ。若し夫れ気習物欲に固められて、拡充する能はざる者は、是れ乃ち愚夫婦の愚夫婦に終はる所以なり。然れども良心は愚夫婦皆有るを以て、故に伯夷の餓うるを聴けば、則ち心皆之を是とし、盗跖の侈れるを聴けば、則ち口尽く之を非とす。故に同じき的とは、只だ是れ此の良心のみ。良心とは、良知なり。故に良知を外にするの学は則ち異端なり。聖人復た起るとも、必ず斯の言を易へざらん。
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