洗心洞箚記 / 卷上・第百二十條
心卽五臟之心、而不別有心也者也、其五臟之心、僅方一寸、而蘊蓄天理焉、唐凝菴曰、性不過是此氣之極有條理處、舍氣之外、安得有性、心不過五臟之心、舍五臟之外、安得有心、心之妙處、在方寸之虛、則性之所宅也、吾說不與之期而同符、猶俟君子之論、
新字:心即五臓之心、而不別有心也者也、其五臓之心、僅方一寸、而蘊蓄天理焉、唐凝菴曰、性不過是此気之極有条理処、舎気之外、安得有性、心不過五臓之心、舎五臓之外、安得有心、心之妙処、在方寸之虚、則性之所宅也、吾説不与之期而同符、猶俟君子之論、
書き下し
心は即ち五臓の心にして、別に心なる者有らざるなり。其の五臓の心は、僅かに方一寸にして、天理を蘊蓄す。唐凝菴曰く、性は是れ此の気の極めて条理有る処に過ぎず、気を舎てて外に、安んぞ性有るを得ん。心は五臓の心に過ぎず、五臓を舎てて外に、安んぞ心有るを得ん。心の妙処は、方寸の虚に在り、則ち性の宅する所なり、と。吾が説之と期せずして符を同じうす、猶ほ君子の論を俟つ。
現代語訳
心とはすなわち五臓の心臓であって、別に心というものがあるのではない。その五臓の心はわずか一寸四方だが、天理を内に蓄えている。唐凝菴(唐鶴徴)は言う。「性とは、この気のきわめて筋目のあるところにすぎない。気を捨てて、どこに性があろうか。心とは五臓の心にすぎない。五臓を捨てて、どこに心があろうか。心の霊妙なところは方寸の虚にあり、それが性の宿るところである。」私の説は、彼と示し合わせたわけでもないのに符合した。なお君子の論を待ちたい。
解説
心とは身体の心臓のことで、ほかに抽象的な心があるのではないとし、その一寸四方の虚に天理が宿ると説く。明の唐鶴徴の、性は気の条理あるところ、心は五臓の心であり、その妙は方寸の虚にあって性の宅である、という言葉を引き、期せずして一致したと言う。気を離れて理なしとする明代の気の哲学の流れの中で、中斎の太虚論を身体に根づかせた条である。心を身体から切り離さない見方は、疲れや不調が判断を曇らせるという現代の実感にも通じる。心を整えることは身を整えることでもある。
この章句が説くこと
心性気天理太虚身体
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・修身・心に城池有り、口に門戶有り心は城池有るを要し、口は門戶有るを要す。城池有れば則ち出でず、門戶有れば則ち縱にせず。
-
『呻吟語』外篇・天地・心は就ち是れ天なり心は就ち是れ天なり。心を欺くは便ち是れ天を欺くなり。心に事ふるは便ち是れ天に事ふるなり。更に須らく蒼蒼の上面に向かひて討むべからず。
-
『呻吟語』内篇・修身・心を大にし虛にし平にし潛め定む其の心を大にして天下の物を容れ、其の心を虛にして天下の善を受け、其の心を平にして天下の事を論じ、其の心を潛めて天下の理を觀、其の心を定めて天下の變に應ず。
-
『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
-
『呻吟語』内篇・存心・心は天平のごとくならんことを要す心は天平のごとくならんことを要す。物を稱る時、物は忙しくして衡は忙しからず。物去る時、即ち懸空して此に在り。只だ恁く靜虛中正なれば、何等ぞ自在ならん。
-
『呻吟語』外篇・人情・心は二三を怕れ、情は一を怕る心は二三を怕れ、情は一を怕る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る