洗心洞箚記 / 卷上・第百十九條
呂新吾先生曰、在上者無過、在下者多過、非在上者之無過、有過而人莫敢言、在下者非多過、誣之而人莫敢辨、吾意在下者、非多過、而猶見誣如此、況眞有過惡則必不免矣、故在下君子、不可不盡心以立無過之地也、
新字:呂新吾先生曰、在上者無過、在下者多過、非在上者之無過、有過而人莫敢言、在下者非多過、誣之而人莫敢弁、吾意在下者、非多過、而猶見誣如此、況真有過悪則必不免矣、故在下君子、不可不尽心以立無過之地也、
書き下し
呂新吾先生曰く、上に在る者は過ち無く、下に在る者は過ち多し。上に在る者の過ち無きに非ず、過ち有りて人敢へて言ふ莫し。下に在る者は過ち多きに非ず、之を誣ひて人敢へて弁ずる莫し、と。吾意ふに下に在る者は、過ち多きに非ずして、猶ほ誣ひらるること此の如し。況んや真に過悪有れば則ち必ず免れず。故に下に在る君子は、心を尽して以て無過の地に立たざるべからざるなり。
現代語訳
呂新吾先生(呂坤)は言う。「上にいる者には過ちがなく、下にいる者には過ちが多い。上にいる者に過ちがないのではない。過ちがあっても人があえて言わないのである。下にいる者に過ちが多いのではない。ぬれぎぬを着せられても人があえて弁護しないのである。」私が思うに、下にいる者は過ちが多いわけでもないのに、なおこのように誣いられる。まして本当に過ちや悪があれば、必ず免れない。だから下の地位にいる君子は、心を尽くして過ちのない立場に身を置かなければならない。
解説
明の呂坤『呻吟語』の、上の者の過ちは誰も言わず、下の者は濡れ衣を着せられても誰も弁護しない、という観察を引く。中斎はそこから、下にいる君子は過ちが無くてさえ誣いられるのだから、心を尽くして無過の地に立てと戒める。大坂町奉行所の与力として、組織の中の上下の力学を身をもって知っていた人の言葉として読める。組織の中で立場の弱い者ほど、小さな落ち度が大きく言われる。それを嘆くより、隙を作らない誠実な仕事で自分を守ることが先である。
この章句が説くこと
過ち上下誠修己呂坤組織
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『五常訓』巻之五・智日月の蝕すれども、やがてもとの如くになれば、光明少しも欠けざるが如し。凡人の諫を好んできき用ひ、我が過を改むるは、善これより大なるはなし。天下の美徳なり。知と云ふべし。古より、たかき賤しき、諫を好んで用ふる人は、国家をおこし、身をおこす。諫をふせぐは、悪これより大なるは無し。天下の悪徳なり。愚と云ふべし。古より、諫をふせぐものは、貴も賤も、多くはほろぶ。古来其証拠明なり。夫明鏡といへども、其うらを照らさず。君子といへども、自ら見るに昧し。故に賢人君子は、つとめて人の諫をもとむ。堯に諫の鼓あり。いさめんとする人は、此鼓をうつ。舜に誹謗の木あり。木をけづりて、路頭に立て置きて、其身の行と、政の悪しきことを誹らしむ。
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