洗心洞箚記 / 卷上・第百十六條
視履考祥、此豈非不占而斷其吉凶乎、故人欲知吉凶、則不問之龜筮、而問之良知可也、良知不能瞞曾所履之是非邪正矣、無非事者、是眞格物、故自王公至庶匹、日用應酬之事、皆格物也、豈只讀書窮物理、然後謂之格物云乎哉、耳目口鼻四肢、養吾之物、而又亡吾之物也、故常常不照固有之知、則必入異矣、
新字:視履考祥、此豈非不占而断其吉凶乎、故人欲知吉凶、則不問之亀筮、而問之良知可也、良知不能瞞曽所履之是非邪正矣、無非事者、是真格物、故自王公至庶匹、日用応酬之事、皆格物也、豈只読書窮物理、然後謂之格物云乎哉、耳目口鼻四肢、養吾之物、而又亡吾之物也、故常常不照固有之知、則必入異矣、
書き下し
履を視て祥を考ふ、此れ豈に占はずして其の吉凶を断ずるに非ずや。故に人吉凶を知らんと欲せば、則ち之を亀筮に問はずして、之を良知に問ひて可なり。良知は曾て履む所の是非邪正を瞞く能はず。事に非ざる無き者、是れ真の格物なり。故に王公より庶匹に至るまで、日用応酬の事は、皆格物なり。豈に只だ書を読み物理を窮めて、然る後に之を格物と謂ふと云はんや。耳目口鼻四肢は、吾を養ふの物にして、又吾を亡ぼすの物なり。故に常常固有の知を照さずんば、則ち必ず異に入らん。
現代語訳
(『易』に)「履むところを視て、その祥(吉凶のしるし)を考える」とある。これは占わずに吉凶を判断することではないか。だから人が吉凶を知りたいなら、亀卜や筮竹に問わずに、良知に問えばよい。良知は、かつて履んできたことの是非や邪正をごまかすことができない。事でないものは何もない、これが本当の格物である。だから王公から庶民に至るまで、日々の応対の事はみな格物である。どうして書物を読み物の理を窮めてからはじめて格物と言うことがあろうか。耳・目・口・鼻・手足は、私を養う物であり、また私を滅ぼす物でもある。だから常に生まれながらの知(良知)で照らしていなければ、必ず異端に入ってしまう。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷上・第百四十三條陽明先生曰く、文公の格物の説は、只だ是れ頭脳少し。所謂之を念慮の微に察すと謂ふが如き、此の一句は、之を文字の中に求め、之を事為の著に験し、之を講論の際に索むると、混じて一例と作して看るべからず、是れ軽重無きなり、と。窃かに先生の意を考ふるに、則ち之を念慮の微に察する、即ち是れ頭脳なりと謂ふのみ。此れ乃ち是れ正論なり。何となれば則ち察と曰ひ、求と曰ひ、験と曰ひ、索と曰ふ、其れ何者か之を察し、之を求め、之を験し、之を索むる、良知に非ずして誰ぞや。故に之を文字に求め、之を事為に験し、之を講論に索むと雖も、要するに皆念慮の微に帰するのみ。如し念慮の微に帰せずんば、則ち文字事為講論は果して何物ぞ、亦外物なるのみ。泛泛蕩蕩として、亡子を道路に求むるが如く然り、豈に根本無き学問に非ずや。而るを況んや凡そ天下の物に即くと云へば、則ち外物を逐ひて心理を遺さざる者幾ど希なり。故に学人之を文字の中に求め、之を事為の著に験し、之を講論の際に索むと雖も、必ず皆之を念慮の微に察すれば、則ち物格りて知至る。学びて要を知らず、支離に落ち、口耳に流れて、聖賢の域を望むは、亦難からずや。
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『洗心洞箚記』卷下・第六十八條陽明先生曰く、嗚呼、如し知を致せば、則ち心悟に存す、致知尽くせりと。夫れ良知は遠ざくべからず、道為るや屢遷る、変動して居らず、六虚に周流し、上下常無く、剛柔相易はり、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のみ。故に良知は即ち易、易は即ち良知、一事として易ならざる無く、一事として良知ならざる無し。故に経礼三百曲礼三千の繁と雖も、只致知の二字を尽くし了る。姑く曲礼中の一事を以て之を道はん。婦人を僕御するには、則ち左手を進め右手を後にす。国君を御するには、則ち右手を進め左手を後にして俯す。一は左手を進め、一は右手を進む。其の条理節文、孰か之をして活動せしむるや。宜しく之を三思すべし。
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伝習録・陳九川録庚辰、虔州に往きて再び先生に見ゆ。問う、「近来の功夫、稍(やや)頭脳を知るが若しと雖も、然れども個の穏当快楽の処を尋ね難し」と。先生曰く、「爾は却って心上に去きて個の天理を尋ぬ。此れ正に所謂る理障なり。此の間に個の訣竅有り」と。曰く、「請い問う、如何」と。曰く、「只だ是れ知を致すなり」と。曰く、「如何にして致さん」と。曰く、「爾の那の一点の良知は、是れ爾の自家底の準則なり。爾の意念の著く処、他は是ならば便ち是なるを知り、非ならば便ち非なるを知る。更に他を瞞(あざむ)くこと一些も得ず。爾は只だ他を欺かんことを要せず、実実落落として他に依著して做し去れ。善は便ち存し、悪は便ち去れ。他の這裏、何等か穏当快楽なる。此れ便ち是れ『格物』の真訣、『致知』の実功なり。若し這些の真機に靠著せずんば、如何ぞ去きて物を格さん。我も亦た近年、体貼し出だし来たりて此くの如く分明なり。初めは猶お只だ他に依らば恐らくは足らざる有らんと疑う。精細に看れば、些小の欠闕も無し」と。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「人に致知・明徳を教えて、其の物に即して理を窮むるを戒む。誠に昏闇の士をして、深居端坐し、教告を聞かずして、遂に能く知致り徳明らかなるに至らしめんや。縦令(たと)い静にして覚有り、稍(やや)本性を悟るも、則ち亦た定慧無用の見ならん。果たして能く古今を知り、事変に達して、用を天下国家の実に致すや否や。其の曰く、『知は意の体、物は意の用。物を格すは君心の非を格すの格の如し』と。語は超悟なりと雖も、独り得て陳見を踵(つ)がざるも、抑も恐らくは道に於て未だ相い吻合せざらん」と。区区、致知格物を論ずるは、正に理を窮むる所以なり。未だ嘗て人の理を窮むるを戒め、之をして深居端坐して一も事とする所無からしめず。若し物に即して理を窮むるを謂わば、前に云う所の「外を務めて内を遺る」者の如くんば、則ち不可なる所有るのみ。昏闇の士も、果たして能く事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致さば、則ち愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強く、大本立ちて達道行われ、九経の属も、一以て之を貫きて遺す無からん。尚お何ぞ其の致用の実無きを患えんや。彼の頑空虚静の徒は、正に惟だ事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致す能わずして、倫理を遺棄し、寂滅虚無を以て常と為す。是を以て之を要するに以て家国天下を治むべからず。孰か聖人の窮理尽性の学にして、亦た是の弊有りと謂わんや。心は、身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂る本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知の感に応じて動く者、之を意と謂う。知有りて而る後に意有り。知無くんば則ち意無し。知は意の体に非ずや。意の用うる所は必ず其の物有り。物は即ち事なり。意、親に事うるに用うるが如きは、既に親に事うるを一物と為す。意、民を治むるに用うれば、即ち民を治むるを一物と為す。意、書を読むに用うれば、即ち書を読むを一物と為す。意、訟を聴くに用うれば、則ち訟を聴くを一物と為す。凡そ意の用うる所、物無き者有る無し。是の意有れば即ち是の物有り。是の意無くんば即ち是の物無し。物は意の用に非ずや。「格」の字の義は、「至」の字を以て訓ずる者有り。「文祖に格る」「有苗、来り格る」の如きは、是れ「至」を以て訓ずる者なり。然れども「文祖に格る」は、必ず純孝誠敬にして、幽明の間、一も其の理を得ざる無くして、而る後に之を「格」と謂う。有苗の頑なるも、実に文徳の誕(おお)いに敷くを以てして而る後に格る。則ち亦た「正」の字の義を兼ねて其の間に在る有り。未だ専ら「至」の字を以て之を尽くすべからざるなり。「其の非心を格す」「大臣は君心の非を格す」の類の如きは、是れ則ち一に皆な「其の不正を正して以て正に帰す」の義なり。而して「至」の字を以て訓と為すべからず。且つ『大学』の「格物」の訓も、又た安くんぞ其れ「正」の字を以て訓と為さずして、必ず「至」の字を以て義と為すを知らんや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百三十三條張楊園は念台劉子に学びて、戈を以て室に入る者なり。何となれば、良知を以て直情径行と為す。吁、何ぞ其の言の悖れるや。夫れ良知は、学ばず慮らざるの良心のみ、性なり、情に非ざるなり。而して直情は乃ち性に非ず。然るに性の良を以て直情と為すは何ぞや。是れ全く愛悪の念に係る、故に其の誣ふること一に此に至る。慎まざるべけんや。這裏微かに禍福生死の念の在る有れば、則ち格物の物の字、決して暁明白ならしむる能はざるなり。如し其の念無くんば、則ち心解し了らん。
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伝習録・黄以方録黄以方問う、「『博く文を学ぶ』は事に随いて此の天理を存するを学ぶと為す。然らば則ち『行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ』と謂うは、其の説、相い合わざるに似たり」と。先生曰く、「『詩』『書』・六芸は、皆な是れ天理の発見なり。文字は都て其の中に包まる。之を『詩』『書』・六芸に考うるは、皆な此の天理を存するを学ぶ所以なり。特に事為に発見する者のみ方に文と為すにあらず。『余力あらば文を学ぶ』も亦た只だ『博く文を学ぶ』中の事なり」と。或るひと「学びて思わず」の二句を問う。曰く、「此れも亦た為にする有りて言う。其の実、思うは即ち学なり。学びて疑う所有らば、便ち須らく之を思うべし。『思いて学ばず』とは、蓋し此等の人有り。只だ懸空に去きて思い、一の想個の道理を想い出ださんことを要す。却って身心の上に在りて実に其の力を用い、以て此の天理を存するを学ばず。思と学とを両事と作して做す。故に『罔(くら)し』と『殆(あや)うし』の病有り。其の実、思うは只だ是れ其の学ぶ所を思う。原と両事に非ざるなり」と。先生曰く、「先儒、『格物』を解して天下の物を格すと為す。天下の物、如何ぞ格し得んや。且つ一草一木も亦た皆な理有りと謂う。今、如何ぞ去きて格さんや。縦い草・木を格し得来たるも、如何ぞ反り来たりて自家の意を誠にし得んや。我、『格』を解して『正』の字の義と作し、『物』を『事』の字の義と作す。『大学』の所謂る『身』は、即ち耳・目・口・鼻・四肢、是なり。身を修めんと欲するは便ち是れ、目は礼に非ずんば視る勿かれ、耳は礼に非ずんば聴く勿かれ、口は礼に非ずんば言う勿かれ、四肢は礼に非ずんば動く勿かれ、と要するなり。這個の身を修めんことを要するに、身上に如何ぞ工夫を用い得んや。心なる者は、身の主宰なり。目は視ると雖も、而して視る所以の者は、心なり。耳は聴くと雖も、而して聴く所以の者は、心なり。口と四肢とは言い動くと雖も、而して言い動く所以の者は、心なり。故に身を修めんと欲するは自家の心体を体当し、常に廓然大公にして、些子も正しからざる処有る無からしむるに在り。主宰、一たび正しければ、則ち目に竅を発するも、自ら礼に非ざるの視る無く、耳に竅を発するも、自ら礼に非ざるの聴く無く、口と四肢とに竅を発するも、自ら礼に非ざるの言い動く無し。此れ便ち是れ身を修むるは其の心を正すに在るなり。然れども至善なる者は、心の本体なり。心の本体、那ぞ不善有らんや。如今、心を正さんと要するに、本体の上、何処にか功を用い得んや。必ず心の発動する処に就きて、纔(はじ)めて力を著くべきなり。心の発動は不善無き能わず。故に須らく此の処に就きて力を著くべし。便ち是れ『誠意』に在るなり。一念、善を好むに発せば、便ち実実落落として去きて善を好むが如し。一念、悪を悪むに発せば、便ち実実落落として去きて悪を悪む。意の発する所、既に誠ならざる無くんば、則ち其の本体、如何ぞ正しからざる的有らんや。故に其の心を正さんと欲するは意を誠にするに在り。工夫、誠意に到りて、始めて著落の処有り。然れども誠意の本は、又た知を致すに在るなり。所謂る『人、知らずと雖も、己の独り知る者』、此れ正に是れ吾が心の良知の処なり。然れども善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち做し去らず、不善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち去きて做さずんば、則ち這個の良知は便ち遮蔽し了る。是れ知を致す能わざるなり。吾が心の良知、既に擴充して底に到る能わずんば、則ち善は好むを知ると雖も、著実に好む能わず。悪は悪むを知ると雖も、著実に悪む能わず。如何ぞ意の誠なるを得んや。故に知を致すは、意の誠なるの本なり。然れども亦た是れ懸空の致知にあらず。知を致すは実事の上に在りて格す。意、善を為すに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為し、意、悪を去るに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為さざるが如し。悪を去るは固より是れ不正を格して以て正に帰す。善を為すは則ち不善、正されたり。亦た是れ不正を格して以て正に帰すなり。此くの如くんば、則ち吾が心の良知、私欲の蔽う無くして、以て其の極を致すを得たり。而して意の発する所、善を好み悪を去ること、誠ならざる有る無し。誠意の工夫の実に手を下す処は格物に在るなり。若し此くの如く物を格さば、人人、便ち做し得たり。人皆な以て堯・舜と為るべしとは、正に此に在るなり」と。
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