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洗心洞箚記 / 卷上・第百六條

忿與懼、庸常所不免、而忿屬剛、懼屬弱、皆病也、病也則不可不療也、王震澤先生治怒箴曰、有若撞搪、或干吾意、盛氣赫炎、如火斯熾、熾不傷物、乃先自燼、旣應於事、亦蓄於身、方其怒時、爾盍自思、彼其是耶、我怒奚爲、彼且非耶、怒之則已、怒而不怒、弗留於己、譬彼熾火、沃以淸泉、沃之沃之、火乃不然、明鏡在懸、其中湛若、是謂不遷、顏氏之學、人以此療怒、則庶乎愈焉、其治懼箴曰、有赫在上、或臨在旁、中乃憤亂、有沸如湯、沸莫自知、倉皇眩瞀、心旣靡定、身且奚措、方其懼時、爾盍自定、在吾唯理、在天唯命、理之正矣、守且勿他、命之定矣、雖死而何、譬彼寒泉、點於沸湯、點之點之、沸乃不揚、刀鋸在前、不震不竦、是謂不動、孟軻之勇、人以此療懼、則庶乎愈焉、眞愈則心歸乎虛、雖心歸乎虛、則怒與懼、亦天理也矣、所謂發而中節者也、此則不可無也、

新字:忿与懼、庸常所不免、而忿属剛、懼属弱、皆病也、病也則不可不療也、王震沢先生治怒箴曰、有若撞搪、或干吾意、盛気赫炎、如火斯熾、熾不傷物、乃先自燼、既応於事、亦蓄於身、方其怒時、爾盍自思、彼其是耶、我怒奚為、彼且非耶、怒之則已、怒而不怒、弗留於己、譬彼熾火、沃以清泉、沃之沃之、火乃不然、明鏡在懸、其中湛若、是謂不遷、顔氏之学、人以此療怒、則庶乎愈焉、其治懼箴曰、有赫在上、或臨在旁、中乃憤乱、有沸如湯、沸莫自知、倉皇眩瞀、心既靡定、身且奚措、方其懼時、爾盍自定、在吾唯理、在天唯命、理之正矣、守且勿他、命之定矣、雖死而何、譬彼寒泉、点於沸湯、点之点之、沸乃不揚、刀鋸在前、不震不竦、是謂不動、孟軻之勇、人以此療懼、則庶乎愈焉、真愈則心帰乎虚、雖心帰乎虚、則怒与懼、亦天理也矣、所謂発而中節者也、此則不可無也、

書き下し

忿と懼とは、庸常の免れざる所にして、忿は剛に属し、懼は弱に属す、皆病なり。病なれば則ち療せざるべからず。王震沢先生の治怒箴に曰く、撞搪するが若き有りて、或は吾が意を干せば、盛気赫炎として、火の斯れ熾んなるが如し。熾んにして物を傷らず、乃ち先づ自ら燼く。既に事に応じて、亦身に蓄ふ。其の怒る時に方りて、爾盍ぞ自ら思はざる。彼其れ是なるか、我怒りて奚をか為さん。彼且つ非なるか、之を怒れば則ち已む。怒りて怒らず、己に留めず。譬へば彼の熾火に、沃ぐに清泉を以てするがごとし。之に沃ぎ之に沃げば、火乃ち然えず。明鏡懸に在りて、其の中湛若たり。是を不遷と謂ふ、顔氏の学なり、と。人此を以て怒りを療せば、則ち愈ゆるに庶からん。其の治懼箴に曰く、赫たる有りて上に在り、或は臨みて旁らに在れば、中乃ち憤乱し、沸くこと湯の如き有り。沸けども自ら知る莫く、倉皇として眩瞀す。心既に定まる靡くんば、身且つ奚くにか措かん。其の懼るる時に方りて、爾盍ぞ自ら定めざる。吾に在りては唯だ理、天に在りては唯だ命。理の正しきは、守りて且つ他する勿かれ。命の定まれるは、死すと雖も何ぞや。譬へば彼の寒泉を、沸湯に点ずるがごとし。之に点じ之に点ずれば、沸乃ち揚がらず。刀鋸前に在るも、震はず竦まず。是を不動と謂ふ、孟軻の勇なり、と。人此を以て懼れを療せば、則ち愈ゆるに庶からん。真に愈ゆれば則ち心虚に帰す。心虚に帰すと雖も、則ち怒と懼とも、亦天理なり。所謂発して節に中る者なり。此れ則ち無かるべからざるなり。

現代語訳

怒りと懼れは普通の人が免れないものであり、怒りは剛に属し、懼れは弱に属する。どちらも病である。病であれば治さなければならない。王震沢先生(王鏊)の「治怒箴」に言う。「ぶつかってくるような者があって、わが意に逆らえば、盛んな気がかっと燃え、火が燃えさかるようになる。燃えさかっても相手を傷つけず、まず自分を焼き尽くす。事に応じたあとも、なお身に蓄えられる。怒っているときに、なぜ自ら考えないのか。相手が正しいなら、私が怒って何になろう。相手が間違っているなら、怒ればそれで終わりにせよ。怒っても怒りにとらわれず、自分の中に留めない。たとえばあの燃えさかる火に、清い泉の水を注ぐようなものだ。注ぎに注げば、火はもう燃えない。明るい鏡が懸かっていて、その中は澄みきっている。これを『怒りを遷さず』と言い、顔氏(顔回)の学である。」人がこれで怒りを治せば、治るに近いだろう。その「治懼箴」に言う。「威光あるものが上にあり、あるいは臨んで傍らにあると、胸の中は乱れ、湯のように沸き立つ。沸いていても自分では気づかず、慌てふためいて目がくらむ。心が定まらなければ、身をどこに置けようか。懼れるときに、なぜ自ら心を定めないのか。自分にあってはただ理、天にあってはただ命である。理が正しければ、それを守ってほかに移るな。命が定まっていれば、死んだとて何であろう。たとえばあの冷たい泉の水を、沸き立つ湯に差すようなものだ。差しに差せば、沸き立ちはもう上がらない。刀や鋸が目の前にあっても、震えずすくまない。これを『心を動かさず』と言い、孟軻(孟子)の勇である。」人がこれで懼れを治せば、治るに近いだろう。本当に治れば、心は虚に帰る。心が虚に帰ったとき、怒りも懼れもまた天理である。いわゆる「発して節に中る」ものである。これはなくてはならないものである。

解説

怒りは剛、懼れは弱の病だとして、明の王鏊の「治怒箴」「治懼箴」を引く。怒りには、相手が正しければ怒る理由はなく、誤っていても怒ったら留めるなと清泉を注ぎ、懼れには、己に理、天に命があると定めて寒水を差す。顔回の怒りを遷さず、孟子の不動心がその到達点である。中斎はさらに、心が虚に帰せば怒りも懼れも天理であり、『中庸』の「発して節に中る」ものとして必要だと結ぶ。感情を消すのではなく、私心から離れた正しい怒りと懼れを持てということである。義憤を重んじた中斎らしい。

この章句が説くこと

怒り懼れ不動心中庸太虚修己

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