洗心洞箚記 / 卷上・第八十三條
學固正己心、修己身、然以正己心修己身而已、爲學之至焉、蓋非大人之道矣、夫身外之虛、皆吾心也、則人物在心中矣、其爲善去惡、亦我身之事、而其爲善亦無窮、去惡亦無窮也、故大人斃而後休矣、故不斃內、令其爲善、其去惡、便是功夫、
新字:学固正己心、修己身、然以正己心修己身而已、為学之至焉、蓋非大人之道矣、夫身外之虚、皆吾心也、則人物在心中矣、其為善去悪、亦我身之事、而其為善亦無窮、去悪亦無窮也、故大人斃而後休矣、故不斃内、令其為善、其去悪、便是功夫、
書き下し
学は固より己が心を正し、己が身を修む。然れども己が心を正し己が身を修むるを以てのみ、学の至りと為せば、蓋し大人の道に非ず。夫れ身外の虚は、皆吾が心なり、則ち人物は心中に在り。其の善を為し悪を去るも、亦我が身の事にして、其の善を為すも亦窮まり無く、悪を去るも亦窮まり無きなり。故に大人は斃れて而る後に休む。故に斃れざる内は、其の善を為し、其の悪を去らしむる、便ち是れ功夫なり。
現代語訳
学問はもとより自分の心を正し、自分の身を修めるものである。しかし自分の心を正し身を修めるだけを学問の至りとするなら、それは大人(大いなる人)の道ではない。そもそも身の外の虚はすべてわが心であり、だから人も物も心の中にある。人や物に善をなさしめ悪を去らしめるのも、またわが身のことであって、善をなすことにも窮まりがなく、悪を去ることにも窮まりがない。だから大人は倒れて死んでからはじめて休む。倒れないうちは、善をなさしめ悪を去らしめること、それがそのまま工夫である。
解説
修己は学問の基本だが、自分一人を正すだけでは大人の道ではないと言う。身の外の虚もわが心であり、人も物も心の中にあるから、世の善悪もわが身の事として引き受けるべきだという。王陽明の「大人は天地万物を以て一体と為す」という万物一体の仁の考え方を、太虚の語で言い直したものである。『礼記』表記の「斃れて後已む」を思わせる言葉で生涯の努力を説く。のちに民の窮状を見過ごせず乱を起こした中斎の思想の筋道がうかがえる。自己啓発で終わらず、周りをよくする責任まで含めて学ぶのが本当の学びである。
この章句が説くこと
修己大人太虚心万物一体陽明学
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