洗心洞箚記 / 卷上・第七十三條
歐陽公祭劉給事文曰、金百鍊以爲鑑、而萬物不能遁其形、及爲物蝕而蔽其光、頑然無異乎尾甓、然而一遇良工之藥磨而塋之、則可見肝膽而數毛髮、蓋其可昏者光、不可昏者性、其或廢而或用、由有幸與不幸、歐陽公不欲語性、而此數語道盡性之靈、學者善觀之、則良知之旨不出乎此、而語性則人必以爲天自然爲陶鑄、而不知甚乎百鍊以爲鑑也、記曰、人者、其天地之德、陰陽之交、鬼神之會、五行之秀氣也、其初命性也乃如此、豈亦容易哉、故人不可不盡保合大和之工也、否則辜負乎天地之恩矣、
新字:欧陽公祭劉給事文曰、金百錬以為鑑、而万物不能遁其形、及為物蝕而蔽其光、頑然無異乎尾甓、然而一遇良工之薬磨而塋之、則可見肝胆而数毛髪、蓋其可昏者光、不可昏者性、其或廃而或用、由有幸与不幸、欧陽公不欲語性、而此数語道尽性之霊、学者善観之、則良知之旨不出乎此、而語性則人必以為天自然為陶鋳、而不知甚乎百錬以為鑑也、記曰、人者、其天地之徳、陰陽之交、鬼神之会、五行之秀気也、其初命性也乃如此、豈亦容易哉、故人不可不尽保合大和之工也、否則辜負乎天地之恩矣、
書き下し
欧陽公の劉給事を祭る文に曰く、金百たび錬りて以て鑑と為せば、万物其の形を遁るる能はず。物の為に蝕まれて其の光を蔽はるるに及べば、頑然として尾甓に異なる無し。然れども一たび良工の薬に遇ひ、磨きて之を瑩けば、則ち肝胆を見て毛髪を数ふべし。蓋し其の昏すべき者は光、昏すべからざる者は性なり。其の或は廃し或は用ふるは、幸と不幸と有るに由る、と。欧陽公は性を語るを欲せず、而も此の数語は性の霊を道ひ尽す。学者善く之を観れば、則ち良知の旨此を出でず。而るに性を語れば、則ち人必ず以て天自然に陶鋳を為すと為して、百錬以て鑑と為すよりも甚だしきを知らざるなり。記に曰く、人は其の天地の徳、陰陽の交、鬼神の会、五行の秀気なり、と。其の初め性を命ずるや乃ち此の如し、豈に亦容易ならんや。故に人は大和を保合するの工を尽さざるべからず。否ずんば天地の恩に辜負せん。
現代語訳
欧陽公(欧陽脩)は劉給事を祭る文で言う。「金属を百度鍛えて鏡にすれば、万物はその形を隠せない。だが物に腐食されて光が覆われると、かたくなに瓦や敷瓦と変わらなくなる。しかしひとたび腕のよい職人の薬に出会い、磨いて輝かせれば、肝胆まで映し毛髪まで数えられる。思うに、曇らせることができるのは光であり、曇らせることができないのは性(本性)である。それが捨てられたり用いられたりするのは、幸と不幸とがあるからだ。」欧陽公は性を語ることを好まなかったが、この数語は性の霊妙さを言い尽くしている。学ぶ者がよくこれを観れば、良知の趣旨はここから出ない。ところが性を語ると、人は必ず、天が自然に造り上げたものだと考え、それが百度鍛えて鏡にするよりもはるかに念入りなものであることを知らない。『礼記』に「人はその天地の徳、陰陽の交わり、鬼神の会するところ、五行の秀でた気である」とある。天がはじめに性を授けたのはこのようであった。どうしてたやすいことであろうか。だから人は大和(大いなる調和)を保ち合わせる工夫を尽くさねばならない。そうしなければ天地の恩に背くことになる。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷上・第百十二條良知は各々具備す、地中の水の、有らざる無きが如し。之を致すの難きは、逆水の舟の如し、惰れば則ち退きて進まず。荀子は之を致すの難きを覩て、遂に性悪と謂ひ、孟子は有らざる無きを見て、断じて性善と謂ふ。夫れ之を致すの難きと雖も、然れども有らざる無ければ、則ち本来の性は、固より善なるのみ。故に性善の説は、万世に対して、確乎として其れ易ふべからざる者なり。然れども之を致さずんば、則ち視聴言動皆道を離る。皆道を離るれば則ち果して人か、抑も獣か。若し獣ならば則ち性果して善か、抑も悪か。吾荀説の世に孚とせられんことを恐るるなり。是の故に学者は志を立てて以て之を致さざるべからざるなり。
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『洗心洞箚記』箚記跋(松浦誠之)因りて誠之謹んで之を考ふるに、太虚と良知とは一のみ。其の公にして私無き処は即ち太虚、其の霊にして昧からざる処は即ち良知なり。而して其の公ならず霊ならざる所以の者は、皆夫の意見情識の欲之を蔽ふなり。宜なるかな先生の云云すること。故に吾人の其の欲を去るに於けるや、猶ほ鉱の冶に在り、璞の攻に在るがごときなり。気質を変化するの義有り、死生を一にするの義有り、虚偽を去るの義有り。而して真に反求して即ち之を去り、之を変化し、之を一にすれば、蔽ふ者尽く散ず。是に於いて其の公と霊と乃ち全く現る。猶ほ金の冶を出で、玉の攻を経て、其の精采光色固より外より鑠するに非ざるがごとし。断じて疑ひ無し。如し反求せずして、徒らに篤信を以てするのみならば、則ち善く学ぶに非ざるなり。誠之等の如き者、果して能く虚偽を去るを得るや否や。果して能く気質を変化するを得るや否や。果して能く死生を一にするを得るや否や。之を口にすと雖も之を躬にする能はずんば、実に師教に叛きて師門に益無し。嗚呼、世の豪傑の士、先生の声を聞きて未だ其の面と心とを知らざる者、一たび是の書を閲せば、即ち必ず期せずして合ひ、約せずして契ふこと、尤西川の王子に於けるが如き者有らん。是れ誠之等の夢想して敢へて一日も懐に忘れざる所の者なり。是れ誠之等の夢想して敢へて一日も懐に忘れざる所の者なり。
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『講孟余話』盡心上 首章然れども心の一杯を尽くすと云ひても、其の一杯の所何程と云ふことを知らざればならざること故、其の性を知ると云ふ。性とは人の生れ付き持ち出なり、所謂仁義礼智の性なり。此の性は善にして悪なき者にて、聖人も我と同じき者なり。人此の様の性を具ふると云ふことを真に落着する時は、知の字深く見るべし、性中天下の善皆備はることを知る、故に心の一杯を尽くすこと出来るなり。又此の性を知る時は天を知る。天とは蒼々の天を云ふに非ず、天は即ち理なり。真に性を知り真に心を尽くす時は、天下の理復た此の外にあることなし。故に天下の理悉く物となるなり。王陽明云ふ、「知は知府・知県の知の如し。知府となれば、一府の事大小となく、皆吾が分内の事、知県となれば、一県の事大小となく皆吾が分内の事なり」と。此の説絶妙。天を知れば天下の理皆吾が物となり、性を知れば自己の性分皆吾が物となるなり。性を知らざれば自己善性ありと云へども、吾が物とならず。余是に於て深く感ずることあり。人此の性あり此の心あり、然れば此の天も亦吾が分外の事に非ず、吾が一身の抱負亦豈に盛大雄偉ならずや。然れども尽くさず知らざるに至りては、一裸虫にして草木禽獣の一類たるを免かれず。然る時は盛大雄偉の抱負、性と云ひ、心と云ふ者、皆持ち腐りとなるなり。豈に甚だ惜しむべからざらんや。是れを思はば、学問行事、豈に一日として廃怠すべけんや。
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