講孟余話 / 盡心上 首章
然トモ心ノ一杯ヲ尽スト云テモ、其一杯ノ所何程ト云コトヲ知ラサレハナラサルコト故、知其性ト云フ、性トハ人ノ生レ付持出ナリ、所謂仁義礼智ノ性ナリ、此性ハ善ニシテ惡ナキ者ニテ、聖人モ我ト同シキ者ナリ、人此樣ノ性ヲ具ルト云コトヲ眞ニ落着スル時ハ、知ノ字深ク見ヘシ性中天下ノ善皆備ルコトヲ知ル、故ニ心ノ一杯ヲ尽スコト出來ルナリ、又此性ヲ知ル時ハ知天、天トハ蒼々ノ天ヲ云ニ非ス、天ハ即チ理ナリ、眞ニ性ヲ知リ眞ニ心ヲ尽ス時ハ、天下ノ理復タ此外ニアルコトナシ、故ニ天下ノ理悉ク物トナル也、王陽明云フ、知ハ知府知縣ノ知ノ如シ、知府トナレハ、一府ノ事大小トナク、皆吾カ分内ノ事、知縣トナレハ、一縣ノ事大小トナク皆吾カ分内ノ事ナリト、此說絶妙、天ヲ知レハ天下ノ理皆吾カ物トナリ、性ヲ知レハ自己ノ性分皆吾カ物トナルナリ、性ヲ知サレハ自己善性アリト云トモ、吾カ物トナラズ余是ニ於テ深ク感スルコトアリ、人此性アリ此心アリ、然レハ此天亦吾カ分外ノ事也非ス、吾カ一身ノ抱負亦豈盛大雄偉ナラスヤ、然レトモ盡サス知ラサルニ至テハ、一裸蟲ニシテ草木禽獸ノ一類タルヲ免カレズ、然ル時ハ盛大雄偉ノ抱負、性ト云、心ト云者、皆持チ腐リトナルナリ、豈甚タ惜ムヘカラサランヤ、是ヲ思ハヽ、学問行事、豈一日トシテ廃怠スヘケンヤ、
新字:然トモ心ノ一杯ヲ尽スト云テモ、其一杯ノ所何程ト云コトヲ知ラサレハナラサルコト故、知其性ト云フ、性トハ人ノ生レ付持出ナリ、所謂仁義礼智ノ性ナリ、此性ハ善ニシテ悪ナキ者ニテ、聖人モ我ト同シキ者ナリ、人此様ノ性ヲ具ルト云コトヲ真ニ落着スル時ハ、知ノ字深ク見ヘシ性中天下ノ善皆備ルコトヲ知ル、故ニ心ノ一杯ヲ尽スコト出来ルナリ、又此性ヲ知ル時ハ知天、天トハ蒼々ノ天ヲ云ニ非ス、天ハ即チ理ナリ、真ニ性ヲ知リ真ニ心ヲ尽ス時ハ、天下ノ理復タ此外ニアルコトナシ、故ニ天下ノ理悉ク物トナル也、王陽明云フ、知ハ知府知県ノ知ノ如シ、知府トナレハ、一府ノ事大小トナク、皆吾カ分内ノ事、知県トナレハ、一県ノ事大小トナク皆吾カ分内ノ事ナリト、此説絶妙、天ヲ知レハ天下ノ理皆吾カ物トナリ、性ヲ知レハ自己ノ性分皆吾カ物トナルナリ、性ヲ知サレハ自己善性アリト云トモ、吾カ物トナラズ余是ニ於テ深ク感スルコトアリ、人此性アリ此心アリ、然レハ此天亦吾カ分外ノ事也非ス、吾カ一身ノ抱負亦豈盛大雄偉ナラスヤ、然レトモ尽サス知ラサルニ至テハ、一裸虫ニシテ草木禽獣ノ一類タルヲ免カレズ、然ル時ハ盛大雄偉ノ抱負、性ト云、心ト云者、皆持チ腐リトナルナリ、豈甚タ惜ムヘカラサランヤ、是ヲ思ハヽ、学問行事、豈一日トシテ廃怠スヘケンヤ、
書き下し
然れども心の一杯を尽くすと云ひても、其の一杯の所何程と云ふことを知らざればならざること故、其の性を知ると云ふ。性とは人の生れ付き持ち出なり、所謂仁義礼智の性なり。此の性は善にして悪なき者にて、聖人も我と同じき者なり。人此の様の性を具ふると云ふことを真に落着する時は、知の字深く見るべし、性中天下の善皆備はることを知る、故に心の一杯を尽くすこと出来るなり。又此の性を知る時は天を知る。天とは蒼々の天を云ふに非ず、天は即ち理なり。真に性を知り真に心を尽くす時は、天下の理復た此の外にあることなし。故に天下の理悉く物となるなり。王陽明云ふ、「知は知府・知県の知の如し。知府となれば、一府の事大小となく、皆吾が分内の事、知県となれば、一県の事大小となく皆吾が分内の事なり」と。此の説絶妙。天を知れば天下の理皆吾が物となり、性を知れば自己の性分皆吾が物となるなり。性を知らざれば自己善性ありと云へども、吾が物とならず。余是に於て深く感ずることあり。人此の性あり此の心あり、然れば此の天も亦吾が分外の事に非ず、吾が一身の抱負亦豈に盛大雄偉ならずや。然れども尽くさず知らざるに至りては、一裸虫にして草木禽獣の一類たるを免かれず。然る時は盛大雄偉の抱負、性と云ひ、心と云ふ者、皆持ち腐りとなるなり。豈に甚だ惜しむべからざらんや。是れを思はば、学問行事、豈に一日として廃怠すべけんや。
現代語訳
しかし心のいっぱいを尽くすといっても、そのいっぱいがどれほどかを知らなければならないから、「その性を知る」と言う。性とは人の生まれつき持ってきたもので、いわゆる仁義礼智の性である。この性は善であって悪のないもので、聖人も私と同じである。人がこのような性を備えていることを本当に納得するとき(知の字は深く見るべきである)、性の中に天下の善がすべて備わっていることを知る。だから心のいっぱいを尽くすことができるのである。またこの性を知るとき、天を知る。天とは青々とした空をいうのではなく、天とはすなわち理である。本当に性を知り本当に心を尽くすなら、天下の理はこのほかにない。だから天下の理がことごとく自分のものとなるのである。王陽明は「知は知府・知県の知のようなものだ。知府になれば一府のことは大小なくみな自分の職分の内のことであり、知県になれば一県のことは大小なくみな自分の職分の内のことである」と言った。この説は絶妙である。天を知れば天下の理はみな自分のものとなり、性を知れば自分の本性はみな自分のものとなる。性を知らなければ、自分に善い性があっても自分のものにならない。私はここで深く感じることがある。人にはこの性があり、この心がある。とすればこの天もまた、自分の分の外のことではない。自分一身の抱負は、なんと盛大で雄大なものではないか。しかし尽くさず知らないに至っては、一匹の裸の虫にすぎず、草木や鳥獣のたぐいであることを免れない。そうなれば、盛大で雄大な抱負である性も心も、みな持ち腐れとなってしまう。なんと惜しいことではないか。これを思えば、学問も行いも、一日でも怠けてよいはずがあろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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人物志・體別夫れ學は材を成す所以なり、疏は情を推す所以なり。偏材の性は、移轉すべからず。
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