洗心洞箚記 / 卷上・第七十二條
知止、而后實知所先後、以實知所先後、故得實知修身爲本、此之謂知之至也、致知、致其知于事事、物物也、是故知止、知先後、知本、此三知、大學之訣也、如不知止、安得知所先後、不知所先後、安得知本、不知本而謂致知、則意見之知、而非良知也、
新字:知止、而后実知所先後、以実知所先後、故得実知修身為本、此之謂知之至也、致知、致其知于事事、物物也、是故知止、知先後、知本、此三知、大学之訣也、如不知止、安得知所先後、不知所先後、安得知本、不知本而謂致知、則意見之知、而非良知也、
書き下し
止まるを知りて、而る后に実に先後する所を知る。実に先後する所を知るを以て、故に実に身を修むるを本と為すを知るを得。此を之れ知の至りと謂ふなり。致知とは、其の知を事事物物に致すなり。是の故に止まるを知る、先後を知る、本を知る、此の三知は大学の訣なり。如し止まるを知らずんば、安んぞ先後する所を知るを得ん。先後する所を知らずんば、安んぞ本を知るを得ん。本を知らずして致知と謂はば、則ち意見の知にして、良知に非ざるなり。
現代語訳
止まるべきところを知って、そのあとで本当に物事の先後を知る。本当に先後を知るから、身を修めることが根本であると本当に知ることができる。これを知の至りという。致知とは、その知を一つ一つの事、一つ一つの物に推し及ぼすことである。だから、止まるべきところを知り、先後を知り、本を知るという三つの知が『大学』の秘訣である。もし止まるところを知らなければ、どうして先後を知れようか。先後を知らなければ、どうして本を知れようか。本を知らずに致知と言うなら、それは思いこみの知であって、良知ではない。
解説
『大学』の「止まるを知りて后定まる有り」「物に本末有り、事に終始有り、先後する所を知れば道に近し」「此を本を知ると謂ひ、此を知の至りと謂ふ」をつないで、知止・知先後・知本の三知を大学の要とする。致知を朱子のように物の理を窮めることではなく、知を事物に致すことと読むのは王陽明の致良知の立場である。修身が本だと知らない知は意見にすぎない。仕事でも、目標と優先順位と自分の身の処し方が定まらないまま情報を集めても、判断は意見の寄せ集めになる。
この章句が説くこと
致知良知修身大学先後知止
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『洗心洞箚記』卷上・第五十二條大学の致知を以て致良知と為す者は、陽明先生より始まらず。特に先生の震発雷轟するに因るなり。程子曰く、知は、吾の固より有する所なり。然れども致さずんば則ち之を得る能はずと。此れ豈に致良知を謂ふに非ずや。呂東萊先生曰く、致知格物は、修身の本なり。知は、良知なり。堯舜と同じき者なり。理既に窮まれば則ち知自ら至り、堯舜と同じき者忽然として自ら見はる。黙して之を識ると。此れ豈に顕かに致良知を謂ふに非ずや。胡敬斎先生曰く、心は本と知有り。気稟物欲に因りて其の良知を昏蔽す。故に須らく知を致すべしと。此れも亦顕かに致良知を謂ふに非ずや。而して朱子曰く、明徳とは本と此の明徳有るを謂ふなり。孩提の童も、其の親を愛するを知らざる無く、其の長ずるに及びてや、其の兄を敬するを知らざる無し。其の良知良能は、本と自ら之を有す。只だ私欲の蔽ふ所と為るが為に、故に暗くして明らかならず。所謂明明徳とは、之を明らかにする所以を求むるなりと。其の之を明らかにする所以の者は、致良知に非ずして何ぞ。故に朱子も亦致良知を謂ふなり。吾故に曰く、陽明先生より始まらず、特に先生の震発雷轟するに因るなりと。然るに世儒謾りに先生の致良知の説を誹るは、則ち但に先生を誹るのみに非ず、併せて程朱及び呂胡の諸大儒を誹るなり。瞽聾の罪焉より大なるは莫し。
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『大和俗訓』巻之二・為学下一大学に、格物致知を以て道理を明かに知るを、身ををさめ人ををさむる勤のはじめとす。格物とは万事万物の道理にきはめ至るを云ひ、致知とはわが心の知をきはめて明かにするなり。格物の次第は、まづ五常五倫の道、身を治め家をととのふるまぢかき事よりして、次第を以て、やうやく国天下ををさむる理にきはめ至る。是格物なり。かくのごとく万事万物につきて理をきはむれば、わが心の知おのづから明かになる。是致知なり。故に格物の外に致知の工夫なし。是大学のつとめのはじめなり。其次は誠意にあり。意とは心のはじめておこる所の苗なり。心の体はしづかにして、善悪いまだあらはれず。其初てうごく時、善も悪もあらはる。意のおこる時に、このむと悪むとの二あり。
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『洗心洞箚記』卷下・第六十八條陽明先生曰く、嗚呼、如し知を致せば、則ち心悟に存す、致知尽くせりと。夫れ良知は遠ざくべからず、道為るや屢遷る、変動して居らず、六虚に周流し、上下常無く、剛柔相易はり、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のみ。故に良知は即ち易、易は即ち良知、一事として易ならざる無く、一事として良知ならざる無し。故に経礼三百曲礼三千の繁と雖も、只致知の二字を尽くし了る。姑く曲礼中の一事を以て之を道はん。婦人を僕御するには、則ち左手を進め右手を後にす。国君を御するには、則ち右手を進め左手を後にして俯す。一は左手を進め、一は右手を進む。其の条理節文、孰か之をして活動せしむるや。宜しく之を三思すべし。
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大学古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意(こころざし)を誠にする。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。物格(ただ)して而後(のち)知至る。知至りて而後意誠なり。意誠にして而後心正し。心正しくして而後身修まる。身修まりて而後家斉う。家斉いて而後国治まる。国治まりて而後天下平らかなり。天子より以て庶人に至るまで、壹(いつ)に是れ皆身を修むるを以て本となす。其の本乱れて而も末治まる者は否(あら)ず。其の厚くする所の者薄くして、其の薄くする所の者厚きは、未だ之れ有らざるなり。此れ本を知ると謂う、此れ知の至りと謂うなり。
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