洗心洞箚記 / 箚記跋松浦誠之
因誠之謹考之太虛良知一而已矣其公而無私處卽太虛其靈而不昧處卽良知而其所以不公不靈者皆夫意見情識之欲蔽之也宜哉先生云云故吾人之於去其欲也猶礦之在冶璞之在攻也有變化氣質之義焉有一死生之義焉有去虛僞之義焉而眞反求卽去之變化之一之而蔽之者盡散矣於是其公與靈乃全現焉猶金之出冶玉之經攻而其精采光色固非外鑠者也斷無疑矣如不反求而徒以篤信而已則非善學也如誠之等者果能得去虛僞否乎果能得變化氣質否乎果能得一死生否乎雖口之而不能躬之實叛乎師敎而無益於師門矣嗚呼世之豪傑士聞先生之聲而未知其面與心者一閱是書卽必有不期而合不約而契如尤西川於王子者焉是誠之等所夢想而不敢一日忘于懷者也是誠之等所夢想而不敢一日忘于懷者也
新字:因誠之謹考之太虚良知一而已矣其公而無私処即太虚其霊而不昧処即良知而其所以不公不霊者皆夫意見情識之欲蔽之也宜哉先生云云故吾人之於去其欲也猶礦之在冶璞之在攻也有変化気質之義焉有一死生之義焉有去虚偽之義焉而真反求即去之変化之一之而蔽之者尽散矣於是其公与霊乃全現焉猶金之出冶玉之経攻而其精采光色固非外鑠者也断無疑矣如不反求而徒以篤信而已則非善学也如誠之等者果能得去虚偽否乎果能得変化気質否乎果能得一死生否乎雖口之而不能躬之実叛乎師教而無益於師門矣嗚呼世之豪傑士聞先生之声而未知其面与心者一閲是書即必有不期而合不約而契如尤西川於王子者焉是誠之等所夢想而不敢一日忘于懐者也是誠之等所夢想而不敢一日忘于懐者也
書き下し
因りて誠之謹んで之を考ふるに、太虚と良知とは一のみ。其の公にして私無き処は即ち太虚、其の霊にして昧からざる処は即ち良知なり。而して其の公ならず霊ならざる所以の者は、皆夫の意見情識の欲之を蔽ふなり。宜なるかな先生の云云すること。故に吾人の其の欲を去るに於けるや、猶ほ鉱の冶に在り、璞の攻に在るがごときなり。気質を変化するの義有り、死生を一にするの義有り、虚偽を去るの義有り。而して真に反求して即ち之を去り、之を変化し、之を一にすれば、蔽ふ者尽く散ず。是に於いて其の公と霊と乃ち全く現る。猶ほ金の冶を出で、玉の攻を経て、其の精采光色固より外より鑠するに非ざるがごとし。断じて疑ひ無し。如し反求せずして、徒らに篤信を以てするのみならば、則ち善く学ぶに非ざるなり。誠之等の如き者、果して能く虚偽を去るを得るや否や。果して能く気質を変化するを得るや否や。果して能く死生を一にするを得るや否や。之を口にすと雖も之を躬にする能はずんば、実に師教に叛きて師門に益無し。嗚呼、世の豪傑の士、先生の声を聞きて未だ其の面と心とを知らざる者、一たび是の書を閲せば、即ち必ず期せずして合ひ、約せずして契ふこと、尤西川の王子に於けるが如き者有らん。是れ誠之等の夢想して敢へて一日も懐に忘れざる所の者なり。是れ誠之等の夢想して敢へて一日も懐に忘れざる所の者なり。
現代語訳
そこで誠之が謹んで考えるに、太虚と良知とは一つである。公平で私のない所が太虚であり、霊妙で暗まない所が良知である。そして公平でなく霊妙でなくなるのは、みなあの意見や情識の欲がそれを覆うからである。先生がそう言われるのももっともである。だから我々が欲を去ることは、鉱石が炉で精錬され、原石が磨かれるようなものである。そこには気質を変化させるという義があり、生死を一つにするという義があり、虚偽を去るという義がある。そして本当に自分に立ち返って求め、ただちにそれを去り、変化させ、一つにすれば、覆っているものはことごとく散る。そこで公平さと霊妙さが完全に現れる。ちょうど金が炉から出、玉が磨きを経て、その精彩と光沢がもともと外から付けたものでないのと同じである。断じて疑いはない。もし自分に立ち返って求めず、ただ篤く信じるだけなら、善く学ぶ者ではない。誠之らのような者は、本当に虚偽を去ることができるだろうか。本当に気質を変化させることができるだろうか。本当に生死を一つにすることができるだろうか。口でこれを言っても身に行えないなら、まことに師の教えに背き、師の門に何の益もない。ああ、世の豪傑の士で、先生の名声を聞いてもまだその顔と心を知らない者が、ひとたびこの書を読めば、必ず思いがけず心が合い、約束せずとも契り合うこと、尤西川(尤時熙)が王子(陽明)に対したような者が出るだろう。これこそ誠之らが夢に見て、一日も胸の内に忘れたことのないものである。これこそ誠之らが夢に見て、一日も胸の内に忘れたことのないものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』箚記跋(松浦誠之)故に吾曰く、仕路の民功、勇退の隠操、皆是れ学問の力に得る、と。且つ先生常に言ひて曰く、意見情識を掃ふの苦功を用ひずして、徒らに常凡の発見して意欲を攙ふる者を指して、漫りに良知を語る者は、蓋し泰州の王学にして、越中の王学に非ざるなり、と。故に先生の学は未発已前に慎独して、以て意見情識の良知を害する者を痛掃す。故に其の極は太虚に帰するに在り。夫れ太虚なれば則ち良知自然に明らかなり。此れ是れ妙処にして、言語見解の能く及ぶ所に非ざるなり。箚記は乃ち其の致仕の後に書く所にして、五倫五常より経済兵務文学技芸の緊要に迄るまで、尽く載せざる莫し。然れども皆之を太虚に括る。之を太虚に括りて五倫五常経済兵務文学技芸有ること此くの如し。則ち豈に仏ならんや、豈に老ならんや。
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『洗心洞箚記』卷下・第十三條或ひと問ふ、陽明先生も亦明らかに太虚を言ふこと、有りや。曰く、有り。語録に曰く、聖人は只是れ他の良知の本色に還し、更に些子の意を著け在らず。良知の虚は、便ち是れ天の太虚、良知の無は、便ち是れ太虚の無形なり。日月風雷山川民物、凡そ貌象形色有るもの、皆太虚無形の中に在りて発用流行し、未だ嘗て天の障礙と作り得ず。聖人は只是れ其の良知の発用に順ひ、天地万物、倶に我が良知の発用流行の中に在り、何ぞ嘗て又一物の良知の外に超えて、能く障礙と作り得る有らんと。此れ豈に太虚を道ふに非ずや。吾が太虚の説も、皆亦此を祖述し来たる。而して張子の太虚も、復た之に異なること無きなり。人如し無欲ならば、則ち独自に了悟せん。否らずんば必ず老仏に類すと疑ふ有らん。辨ぜずして可なり。問ふ、書を読みて然る後に良知を致すか。曰く、否、書を読むは便ち是れ良知を致すなり。
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『洗心洞箚記』卷上・第五十五條良知を致さずんば、則ち仁決して熟せざるなり。心の虚に帰するは、誠意慎独よりして入る。而して意誠なれば則ち忿懥恐懼好楽憂患する所有ること無し。故に心虚に帰す。一たび所有れば則ち虚に非ず。心太虚に帰せずして、良知と謂ふ者は、皆情識の知にして、真の良知に非ざるなり。真の良知とは、他に非ず、太虚の霊のみ。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を悟らん。
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『洗心洞箚記』箚記自述故に子弟転写の労を省かんが為に、胥ひ謀りて諸を梓に上せ、家塾に蔵して世に公にせずんば、則ち安んぞ之を許さざるを得んや。請ふ者曰く、諾。彼を舎てて此を梓し、将に教へに従はんとす。然りと雖も将来恐らくは世に漏れ出でば、則ち百毀千謗、必ず此れ彼より甚だしからん。何となれば則ち先生学に於て人情に愜はざる者五つ有り。一に曰く太虚。二に曰く致良知。三に曰く変化気質。四に曰く一死生。五に曰く去虚偽。夫れ太虚は釈老に似たり。致良知は朱学に敵す。変化気質は客気勝心なる者の難しとする所。一死生は凡庸怯惰の輩の忌む所。而して虚偽は則ち中人已下、抑も無始の妄縁の其の血肉の間に攙和せざる者鮮し。故に一として其の意に逆らはざる無し。世の悪みを免れんと欲するも得んや。百毀千謗、此れ彼より甚だしきの云ひは此を以てなり。先生宜しく三思すべし。
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『洗心洞箚記』卷上・第三十三條是を知り非を知り、善を知り悪を知るは、是れ乃ち良知の照らすにして、良知の体に非ざるなり。陽明先生特に意欲有る者の為に之を権言するなり。燈燭を以て良知に喩ふるは似たり。而して燈燭は起滅有り、良知は起滅無きなり。日月を以て良知に喩ふるは近し。而して日月は晦蝕有り、良知は晦蝕無きなり。然らば則ち何を以て之を喩へん。喩ふる無き者なり。夫れ良知は只だ是れ太虚の霊明のみ。然り而して時有りて燈燭を以て之を喩ふるも、亦不可無し。時有りて日月を以て之を喩ふるも、亦不可無し。中人以下を開導教誨するの方法、以て此の如くならざるべからざるなり。如し直ちに太虚の霊明を以て之を説かば、則ち魏の文侯の古楽を聴くと同じ。唯だ臥せんことを恐る。唯だ臥せんことを恐るる故に耳に入り心に存すること能はざるなり。其の極は世に善人無きに至る。人の師為る者、宜しく心を教法に用ふべし。
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『洗心洞箚記』卷上・第四十七條陽明先生の訓ふる所の致良知の実功を積むに非ずんば、則ち横渠先生の所謂太虚の地位に至るべからず。故に心太虚に帰せんと欲する者は、宜しく良知を致すべし。良知を致さずして太虚を語る者は、必ず釈老の学に陥る。恐れざるべけんや。
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