洗心洞箚記 / 卷上・第五十二條
以大學之致知爲致良知者、不自陽明先生始、特因先生震發雷轟也、程子曰、知者、吾之所固有、然不致則不能得之、此豈非謂致良知乎、呂東萊先生曰、致知格物、修身之本也、知者、良知也、與堯舜同者也、理旣窮則知自至、與堯舜同者忽然自見、默而識之、此豈非顯謂致良知乎、胡敬齋先生曰、心本有知、因氣稟物欲昏蔽其良知、故須致知、此亦非顯謂致良知乎、而朱子曰、明德謂本有此明德也、孩提之童、無不知愛其親、及其長也、無不知敬其兄、其良知良能、本自有之、只爲私欲所蔽、故暗而不明、所謂明明德者、求所以明之也、其所以明之者、非致良知而何、故朱子亦謂致良知也、吾故曰、不自陽明先生始、特因先生震發雷轟也、然世儒謾誹先生致良知之說、則非但誹先生而已、併誹程朱及呂胡諸大儒也、瞽聾之罪莫大焉、
新字:以大学之致知為致良知者、不自陽明先生始、特因先生震発雷轟也、程子曰、知者、吾之所固有、然不致則不能得之、此豈非謂致良知乎、呂東萊先生曰、致知格物、修身之本也、知者、良知也、与堯舜同者也、理既窮則知自至、与堯舜同者忽然自見、黙而識之、此豈非顕謂致良知乎、胡敬斎先生曰、心本有知、因気稟物欲昏蔽其良知、故須致知、此亦非顕謂致良知乎、而朱子曰、明徳謂本有此明徳也、孩提之童、無不知愛其親、及其長也、無不知敬其兄、其良知良能、本自有之、只為私欲所蔽、故暗而不明、所謂明明徳者、求所以明之也、其所以明之者、非致良知而何、故朱子亦謂致良知也、吾故曰、不自陽明先生始、特因先生震発雷轟也、然世儒謾誹先生致良知之説、則非但誹先生而已、併誹程朱及呂胡諸大儒也、瞽聾之罪莫大焉、
書き下し
大学の致知を以て致良知と為す者は、陽明先生より始まらず。特に先生の震発雷轟するに因るなり。程子曰く、知は、吾の固より有する所なり。然れども致さずんば則ち之を得る能はずと。此れ豈に致良知を謂ふに非ずや。呂東萊先生曰く、致知格物は、修身の本なり。知は、良知なり。堯舜と同じき者なり。理既に窮まれば則ち知自ら至り、堯舜と同じき者忽然として自ら見はる。黙して之を識ると。此れ豈に顕かに致良知を謂ふに非ずや。胡敬斎先生曰く、心は本と知有り。気稟物欲に因りて其の良知を昏蔽す。故に須らく知を致すべしと。此れも亦顕かに致良知を謂ふに非ずや。而して朱子曰く、明徳とは本と此の明徳有るを謂ふなり。孩提の童も、其の親を愛するを知らざる無く、其の長ずるに及びてや、其の兄を敬するを知らざる無し。其の良知良能は、本と自ら之を有す。只だ私欲の蔽ふ所と為るが為に、故に暗くして明らかならず。所謂明明徳とは、之を明らかにする所以を求むるなりと。其の之を明らかにする所以の者は、致良知に非ずして何ぞ。故に朱子も亦致良知を謂ふなり。吾故に曰く、陽明先生より始まらず、特に先生の震発雷轟するに因るなりと。然るに世儒謾りに先生の致良知の説を誹るは、則ち但に先生を誹るのみに非ず、併せて程朱及び呂胡の諸大儒を誹るなり。瞽聾の罪焉より大なるは莫し。
現代語訳
『大学』の致知を致良知とするのは、陽明先生(王守仁)から始まったのではない。ただ先生が雷のように轟かせて明らかにしたにすぎない。程子は「知は自分がもともと持っているものである。しかし致さなければ得られない」と言った。これは致良知を言うものではないか。呂東萊先生(呂祖謙)は「致知格物は修身の本である。知とは良知であり、堯舜と同じものである。理を窮め尽くせば知はおのずから至り、堯舜と同じものがたちまちおのずから現れる。黙ってこれを識る」と言った。これははっきり致良知を言うものではないか。胡敬斎先生(胡居仁)は「心にはもともと知がある。生まれつきの気質や物欲によってその良知が暗く覆われる。だから知を致さねばならない」と言った。これもはっきり致良知を言うものではないか。そして朱子は「明徳とは、もともとこの明徳があることを言う。幼児も親を愛することを知らない者はなく、成長すれば兄を敬うことを知らない者はない。その良知良能は、もともと自分に備わっている。ただ私欲に覆われるために暗くて明らかでないのである。いわゆる明徳を明らかにするとは、これを明らかにする方法を求めることである」と言った。それを明らかにする方法とは、致良知でなくて何であろう。だから朱子もまた致良知を言っているのである。私が「陽明先生から始まったのではない、ただ先生が雷のように轟かせて明らかにしたにすぎない」と言うのはこのためである。それなのに世の儒者がむやみに先生の致良知の説をそしるのは、先生をそしるだけでなく、程朱や呂・胡の諸大儒をもそしることになる。盲目で耳の聞こえぬような罪で、これより大きなものはない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第九十三條二程子曰く、見聞の知は、乃ち物交はりて知る。徳性の知る所に非ず。徳性の知る所は、聞見を待たずと。又曰く、聞見の知は、徳性の知に非ず。徳性の知る所は、聞見を仮らずと。又曰く、良知良能は、皆由る所無し、乃ち天より出づ、人に係らずと。又曰く、夜気の存する所の者は、良知なり、良能なり。苟も拡めて之を充たし、旦昼の梏する所を化して、夜気の存する所と為せば、然る後以て聖人に至る有るなりと。程子の説く所の四条の知は、皆良知なり。之を拡充すれば則ち聖人に至る、陽明先生より始まるに非ざること、此に於てか又識るべし。
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『洗心洞箚記』卷下・第六條毛西河先生曰く、良知は孟子に出づ、原より疑ふべき無し。特に文成、此を提げて直ちに堯舜孔孟の学に従ひ、宋学と相反する処に、此の二字を掲ぐ。特だに文成の領要を得て、聖域に優入するのみならず、且つ苗を化して験実有り、則ち功を万世に有する者なりと。西河の陽明先生を推尊すること即ち此の如し。而して其の致良知以誠意の学、之を高笠先生に私淑し、終に了悟有り。其の証文知本等の書に於いて見るべし。只其の宋学と相反すと謂ふの一語は、乃ち過激なり。程朱何ぞ曾て良知を廃せん。学人平心に其の遺書文集を読めば、則ち往往説き出だすを見るべし。只陽明先生の事事之を説くが如きに非ざるのみ。然らば則ち奚の相反すること之れ有らん。故に学は平心に之を講ずるを貴ぶ。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十條周子曰く、惟だ人や、其の秀を得て最も霊なり。形既に生じ、神知を発す。五性感動して、善悪分れ、万事出づと。陽明先生の所謂良知の本体は、即ち此の霊の謂なり。其の所謂致知の知は、乃ち霊の用にして、即ち此の神知を発するの謂なり。其の所謂衆理具はりて万事出づは、即ち此の五性感動して、善悪分れ、万事出づるの謂なり。而して陽明先生の学は、総て心上より流れ出で来りて、外より借り来る者に非ざるなり。即ち周子の学と同一宗なり。故に王弇州曰く、陽明は心訣を直指して、以て上周程の説に合すと。黄石斎曰く、陽明は全く是れ濂渓の学問なりと。嗚呼、二子の言、公正不易の確論なり。
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『洗心洞箚記』卷下・第六十八條陽明先生曰く、嗚呼、如し知を致せば、則ち心悟に存す、致知尽くせりと。夫れ良知は遠ざくべからず、道為るや屢遷る、変動して居らず、六虚に周流し、上下常無く、剛柔相易はり、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のみ。故に良知は即ち易、易は即ち良知、一事として易ならざる無く、一事として良知ならざる無し。故に経礼三百曲礼三千の繁と雖も、只致知の二字を尽くし了る。姑く曲礼中の一事を以て之を道はん。婦人を僕御するには、則ち左手を進め右手を後にす。国君を御するには、則ち右手を進め左手を後にして俯す。一は左手を進め、一は右手を進む。其の条理節文、孰か之をして活動せしむるや。宜しく之を三思すべし。
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『洗心洞箚記』卷上・第七十二條止まるを知りて、而る后に実に先後する所を知る。実に先後する所を知るを以て、故に実に身を修むるを本と為すを知るを得。此を之れ知の至りと謂ふなり。致知とは、其の知を事事物物に致すなり。是の故に止まるを知る、先後を知る、本を知る、此の三知は大学の訣なり。如し止まるを知らずんば、安んぞ先後する所を知るを得ん。先後する所を知らずんば、安んぞ本を知るを得ん。本を知らずして致知と謂はば、則ち意見の知にして、良知に非ざるなり。
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伝習録・答欧陽崇一崇一の来書に云う、「師云う、『徳性の良知は、聞見に由るに非ず。若し多く聞きて其の善なる者を択びて之に従い、多く見て之を識すと曰わば、則ち是れ専ら之を見聞の末に求めて、已に第二義に落在す』と。竊かに意う、良知は見聞に由りて有るに非ずと雖も、然れども学者の知は、未だ嘗て見聞に由りて発せずんばあらず。見聞に滞るは固より非なり。而して見聞も亦た良知の用なり。今、『第二義に落在す』と曰うは、恐らくは専ら見聞を以て学と為す者の為に言うならん。若し其の良知を致して之を見聞に求めば、亦た知・行合一の功なるに似たり。如何」と。良知は見聞に由りて有るに非ず。而して見聞は良知の用に非ざる莫し。故に良知は見聞に滞らずして、亦た見聞を離れざるなり。孔子云う、「吾に知有らんや。知無きなり」と。良知の外、別に知無し。故に「良知を致す」は是れ学問の大頭脳、是れ聖人の人に教うる第一義なり。今、専ら之を見聞の末に求むと云わば、則ち是れ頭脳を失却して、已に第二義に落在す。近時、同志の中、蓋し已に「致良知」の説有るを知らざる莫し。然れども其の工夫、尚お鶻突なる者多きは、正に是れ此の一問を欠くなり。大抵、学問の工夫は只だ主意の頭脳の是当なるを要す。若し主意の頭脳、専ら「良知を致す」を以て事と為さば、則ち凡そ多く聞き、多く見るも、「良知を致す」の功に非ざる莫し。蓋し日用の間、見聞醻酢は、千頭万緒と雖も、良知の発用流行に非ざる莫し。見聞醻酢を除却せば、亦た良知の致すべき無し。故に只だ是れ一事なり。若し其の良知を致して之を見聞に求むと曰わば、則ち語意の間、未だ二と為るを免れず。此れ専ら之を見聞の末に求むる者と稍(やや)同じからずと雖も、其の未だ精一の旨を得ずと為すは、則ち一なるのみ。「多く聞きて其の善なる者を択びて之に従い、多く見て之を識す」。既に択ぶと云い、又た識すと云えば、其の良知も亦た未だ嘗て其の間に行われずんばあらず。但だ其の意を用うるは乃ち専ら多く聞き、多く見る上に去きて択び識するに在らば、則ち已に頭脳を失却せり。
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