洗心洞箚記 / 卷上・第六十四條
反己問之獨知、則未嘗有進取如狂者、有所不爲如狷者之志、可謂恥矣、而日讀書譚理、究竟終乎鄉愿而已矣、讀朱子書固無論矣、陽明王子以前、朱學諸子之書、猶宜讀之也、如其體用之支離、知行不合一、卽如指掌、曾不胡亂、庶乎不掩過者也、陽明王子以後、朱學諸子之書則初學不讀之可也、何則大抵有客氣勝心者、欲抑王而揚朱、故罅漏補綴、如無支離而爲合一、然以良知爲仇、舍之於度外、則要遺本體而流言語、焉得免掩過也哉、掩過小人之情狀、舍良知義襲之粗工、初學讀之則必迷繆矣、終不能得身心之修正也、故曰不讀之可也、而至學問精熟、則讀之亦奚害哉、有主宰則一覽而其是非得失、瞭然乎心目間矣、不是抑朱而揚王之私、患後輩無得而陷俗學、故詔之也、
新字:反己問之独知、則未嘗有進取如狂者、有所不為如狷者之志、可謂恥矣、而日読書譚理、究竟終乎郷愿而已矣、読朱子書固無論矣、陽明王子以前、朱学諸子之書、猶宜読之也、如其体用之支離、知行不合一、即如指掌、曽不胡乱、庶乎不掩過者也、陽明王子以後、朱学諸子之書則初学不読之可也、何則大抵有客気勝心者、欲抑王而揚朱、故罅漏補綴、如無支離而為合一、然以良知為仇、舎之於度外、則要遺本体而流言語、焉得免掩過也哉、掩過小人之情状、舎良知義襲之粗工、初学読之則必迷繆矣、終不能得身心之修正也、故曰不読之可也、而至学問精熟、則読之亦奚害哉、有主宰則一覧而其是非得失、瞭然乎心目間矣、不是抑朱而揚王之私、患後輩無得而陥俗学、故詔之也、
書き下し
己に反りて之を独知に問へば、則ち未だ嘗て進取すること狂者の如く、為さざる所有ること狷者の如きの志有らず。恥と謂ふべし。而るに日に書を読み理を譚じて、究竟郷愿に終はるのみ。朱子の書を読むは固より論無し。陽明王子以前の朱学諸子の書は、猶ほ宜しく之を読むべきなり。其の体用の支離、知行の合一せざる、即ち掌を指すが如く、曽て胡乱せざるが如きは、過ちを掩はざる者に庶し。陽明王子以後の朱学諸子の書は則ち初学之を読まずして可なり。何となれば則ち大抵客気勝心有る者、王を抑へて朱を揚げんと欲す。故に罅漏補綴し、支離無くして合一を為すが如し。然れども良知を以て仇と為し、之を度外に舎つれば、則ち要は本体を遺れて言語に流る。焉んぞ過ちを掩ふを免るるを得んや。過ちを掩ふは小人の情状、良知を舎つるは義襲の粗工なり。初学之を読めば則ち必ず迷繆せん。終に身心の修正を得る能はざるなり。故に曰く、之を読まずして可なりと。而して学問精熟に至れば、則ち之を読むも亦奚ぞ害あらん。主宰有れば則ち一覧して其の是非得失、心目の間に瞭然たり。是れ朱を抑へて王を揚ぐるの私にあらず。後輩の得る無くして俗学に陥らんことを患ふ。故に之に詔ぐるなり。
現代語訳
自分に立ち返って、自分ひとりが知る心に問うてみると、狂者のように進んで取りに行く志も、狷者のように決してしないことがある志も持ったことがない(『論語』子路)。恥と言うべきである。それなのに毎日書を読み理を論じて、結局は郷愿(八方美人の偽君子)に終わるだけだ。朱子の書を読むのは言うまでもない。陽明王子(王守仁)以前の朱子学の諸子の書も、やはり読むべきである。その本体と働きがばらばらで、知と行が一つでないことが、掌を指すように明らかで、少しもごまかしていない点は、過ちを覆い隠さない者に近い。陽明王子以後の朱子学の諸子の書は、初学者は読まなくてよい。なぜなら、たいてい血気の勇や人に勝とうとする心のある者が、王を抑えて朱を揚げようとするからだ。だから綻びを繕い、ばらばらでなく一つであるかのように見せかける。しかし良知を仇とし、それを度外視して捨てるので、要するに本体を忘れて言葉に流れる。どうして過ちを覆い隠すことを免れようか。過ちを覆い隠すのは小人の姿であり、良知を捨てるのは義を外から取りつくろう粗い工夫である。初学者が読めば必ず迷い誤る。ついには身と心を修め正すことができない。だから読まなくてよいと言うのである。しかし学問が熟したなら、読んでも何の害があろうか。心に主宰があれば、一読してその是非得失が心と目の間にはっきりする。これは朱を抑えて王を揚げようとする私心ではない。後輩が得るところなく俗学に陥ることを心配して、告げるのである。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十九條右十有二条は、乃ち朱子読書為学の矩矱なり。而して深切丁寧と謂ふべし。故に人之を解すること甚だ易きに似て、之を行ふこと益々難し。朱子没して後、其の学者果して我を以て書を観るか、抑々書を以て我を博むるか。恐らくは書を以て我を博むる者多からん。然らば則ち口に朱学を倡ふと雖も、実は則ち其の門外漢に非ずして何ぞや。聖賢の言を読み、之を身心に求めて、教化風俗に意有るか。恐らくは之を読むと雖も、心に通ぜず、身に有せずして、教化風俗を外視する者亦多からん。此の類を以て書肆の誡に比す。朱子既已に之を言ふ、則ち薛文清・胡敬斎を待ちて始めて貶すに非ざるなり。文義を解釈すること、繭糸牛毛にして、道を語りて以て之を履むか。恐らくは道を語りて以て之を履む者多からず。文義を解釈するは何の為ぞの呵責は、既に朱子より起りて、陸王より起らざること明明たり。書を読みて以て心を治むるか。恐らくは書を読みて心を治めざる者十に九ならん。然らば則ち外に向ひて奔馳すること必せり。此れ亦朱子の反つて之が害を為すと、迷惑の甚しきとの憂患を弛むる能はざるなり。紙上に於いて行を尋ね墨を数ふるのみか。亦能く聖賢の心事を見得るか。如し聖賢の心事を見得る能はずんば、則ち朱子に対するに面目無きに非ずや。身上に就きて推究するか。身上に就きて推究せずんば、則ち朱学と謂ひて可ならんや。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十九條朱子曰く、我を以て書を観れば、処処に益を得。書を以て我を博むれば、巻を釈きて茫然たり、と。又曰く、聖賢の言を読みて、心に通ぜず、身に有せずんば、猶ほ書肆たるを免れず。況や其の読む所、又聖賢の書に非ざるをや。此を以て人を道びき、乃ち其の教化行はれて風俗美ならんことを望まんと欲す。其れ亦難し、と。又曰く、文義を解釈して、各々指帰有らしむるは、正に以て道を語らんと欲するのみ。然らずんば則ち文義を解釈するは何の為ぞ、と。又曰く、書を読み学を為すは、本と以て心を治む。今乃ち唯だに之を治むる能はざるのみならず、而も乃ち外に向ひて奔馳し、休息するを得ざらしめ、以て反つて之が害を為すに至る。是れ豈に迷惑の甚しきと為さざらんや、と。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十九條又曰く、書を観るには但だ当に虚心平気にして、以て徐ろに義理の在る所を観るべし。如し其れ取るべくんば、世俗庸人の言と雖も、廃せざる所有り。如し其れ疑ふべくんば、我が伝へて以て聖賢の言と為すと雖も、亦須らく更に審択を加ふべし、と。又曰く、秦漢以来、道学伝はらず、儒者己に反り心を潜むるを知らずして、一に記覧誦説を以て事と為す。是を以て有道の君子深く以て憂ひと為す。然れども亦未だ嘗て遂に書を束ねて読まず、坐して空妙を談ずるを以て、以て聞く有るを徼幸すべしと為さざるなり、と。又曰く、学を為して書を観ざるは、此れ固より一偏の論なり。然れども近日又一般の学問有り、経を廃して史を治め、王道を略して霸術を尊び、古今興亡の変を極論して、此の心存亡の端を察せず。若し祇だ此くの如く書を読まば、則ち又読まざるの愈れりと為すに若かず。況や又中年は精力限り有り。其の汎く観て博く取らんよりは、熟読して精思するに若かず。尺を得れば吾が尺、寸を得れば吾が寸、始めて功力を枉げ用ひずと為すのみ、と。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十二條因りて思ふに、後の教ふる者、孔子に法らずんば、則ち必ず人を誤らん。今自ら悟りて入る者をして、必ず修めて後に道を学ばしめば、則ち自ら不屑の心を生じ、自ら修めて入る者をして、必ず悟りて後に道を学ばしめば、則ち亦及ばざるの歎を起こす。是れ人を誤るに非ずや。然りと雖も聡明と質朴とを平準すれば、則ち彼は少なくして此は多し。然らば則ち読書一偏に流るる者十の七なり。宜なるかな、朱子の教へは天下に満布して、陸子の教へは隠見有り。然れども後の豪傑節義の士、多く陽明子の門より出づ。則ち此れ豈に陸子の余沢に非ずや。且つ明亡び清興りて、出群の才にして朱学を倡ふる者、皆多く陽明子より啓発せらるる者なり。然れども時の好悪に阿りて、王を攻め陸を撃ち、終に一代の風を成す。陸清献の如きは其の撰なり。然れども其の太極論は、是れ全く良知の説を襲ひて以て製する者なり。故に之を陽朱陰王と謂ひて可なり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十九條又曰く、聖賢の心事、今只だ紙上に於いて看る、如何ぞ見得ん、と。又曰く、須らく反り来たりて自家の身上に就きて推究すべし、と。又曰く、一句の書を読まば、須らく這の一句を体察すべし、我将来甚れの処にか用ひ得ん、と。又曰く、大学を読むは豈に他の言語に在らんや。正に之を心に試験すること如何と欲するのみ。好色を好み悪臭を悪むが如き、之を吾が心に験す、果して能く此くの如きか。間居して不善を為す、是れ果して此れ有るか。一たび至らざる有らば、則ち猛勇奮躍して已まず、必ず長進有らん。今此くの如くするを知らず、書は自ら書、我は自ら我、何の益か之れ有らん、と。又曰く、聖学伝はらざりしより、士たる者、学の本有るを知らずして、書に求むる所以は、記誦・訓詁・文詞の間を越えず。是を以て天下の書愈々多くして、理愈々昧く、学者の事愈々勤めて、心愈々放たれ、詞章愈々麗しく、議論愈々高くして、其の徳業事功の実、愈々以て古人に逮ぶ無し、と。
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『童子問』卷下問ふ、宋明の諸儒、一家各一家の宗旨有りて人を指導す。孰か是、孰か非なる。願はくは其の詳を聞かん。曰く、吾に読書の一法有り。今子が為に之を発せん。天下に全く是なるの書無く、又全く非なるの書無し。蓋し聖人に降ること一等なれば、必ず一短一長無きこと能はず。大儒先生と雖も、必ず小疵有り。稗官小説と雖も、亦或は至言有りて、取らざるべからず。然れども其の長処は、必ず淡然として味無く、跡の尋ぬべき無し。而して其の悦ぶべく好むべき者は、必ず其の短処なり。故に短処は得易くして、長処は得難し。若し専ら一家の学を主とせば、則ち必ず先づ其の短処を得て、日に染み月に漬して、卒に終身の深害と為り、永く除くべからず。宜しく砂を披いて金を簡び、左に沙ひ右に汰ひて、悉く塵沙を棄て去りて、斯に真金を得るがごとくすべし。苟も兼ね取り周く捜し広く求めて、竝びに諸家の書を蓄へ、其の短を捨てて其の長を取らば、則ち是非相形はれ、彼此相済して、翫索既に久しくして、而る後に一の至正至当の理有りて、自ら其の中に在らん。徒に終身の害を免るべきのみに非ず、而して天下の書、皆吾が師に非ざる靡し。孔門の博学を貴ぶ者は、蓋し此れが為なり。今朱・王氏の学を講ずる者のごとき、其の朱学を宗とする者は、専ら晦翁の書を読みて、象山・陽明の書に至つては、一も目を過ごさず。王学を講ずる者も亦然り。殊に知らず、朱氏には朱子の短長有り、王氏には王氏の短長有ることを。其の長を知り、又其の短を知る、是れを能く其の人を知ると為すなり。苟も語孟二書を熟読翫味し、此れを以て規矩縄墨と為して、其の是非を校し、其の得失を覈せば、則ち真是真非、斤両適均しくして、毫も差爽無からん。今一一枚挙するに暇あらず。
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