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洗心洞箚記 / 卷上・第六十一條

孟子所謂志壹則動氣、氣壹則動志也、今夫蹶者趨者、是氣也、而反動其心、象山先生說之曰、志壹動氣、此不待論、獨氣壹動志、未能使人無疑、孟子復以蹶趨動心明之、卽可以無疑矣、壹者、專一也、志固爲氣之帥、然至於氣之專一、則亦能動志也、故不但言持其志、又戒之以無暴其氣也、居處飮食、適節宣之宜、視聽言動、嚴邪正之辨、皆無暴其氣之工也、吾謂在學人無志氣夾持之工夫者、不陷玄虛、則必支離矣、故用功當如此、然成德君子則氣一聽志而已、又安氣動志之有、何則蹶者、以心不在焉故也、如恭敬人則決無此躁失、況成德君子乎、趨亦在常人則氣爲其事、故亦動志、然大人君子在千軍萬馬中、馳騁出入、此皆趨也、而本於理、發於志、以使其氣、故無氣動志矣、居處飮食視聽言動、皆心適其節宣之宜、嚴其邪正之辨、卽是虞廷精一之學也、

新字:孟子所謂志壱則動気、気壱則動志也、今夫蹶者趨者、是気也、而反動其心、象山先生説之曰、志壱動気、此不待論、独気壱動志、未能使人無疑、孟子復以蹶趨動心明之、即可以無疑矣、壱者、専一也、志固為気之帥、然至於気之専一、則亦能動志也、故不但言持其志、又戒之以無暴其気也、居処飲食、適節宣之宜、視聴言動、厳邪正之弁、皆無暴其気之工也、吾謂在学人無志気夾持之工夫者、不陥玄虚、則必支離矣、故用功当如此、然成徳君子則気一聴志而已、又安気動志之有、何則蹶者、以心不在焉故也、如恭敬人則決無此躁失、況成徳君子乎、趨亦在常人則気為其事、故亦動志、然大人君子在千軍万馬中、馳騁出入、此皆趨也、而本於理、発於志、以使其気、故無気動志矣、居処飲食視聴言動、皆心適其節宣之宜、厳其邪正之弁、即是虞廷精一之学也、

書き下し

孟子の所謂、志壹なれば則ち気を動かし、気壹なれば則ち志を動かすなり。今夫の蹶く者趨る者は、是れ気なり。而して反つて其の心を動かすと。象山先生之を説きて曰く、志壹にして気を動かすは、此れ論を待たず。独り気壹にして志を動かすは、未だ人をして疑ひ無からしむる能はず。孟子復た蹶趨の心を動かすを以て之を明らかにす。即ち以て疑ひ無かるべし。壹とは、専一なり。志は固より気の帥為り。然れども気の専一なるに至れば、則ち亦能く志を動かすなり。故に但だ其の志を持すと言ふのみならず、又之を戒むるに其の気を暴すること無かれを以てするなり。居処飲食、節宣の宜しきに適ひ、視聴言動、邪正の弁を厳にするは、皆其の気を暴すること無きの工なりと。吾謂へらく学人に在りて志気夾持の工夫無き者は、玄虚に陥らずんば、則ち必ず支離ならん。故に功を用ふること当に此の如くなるべし。然れども成徳の君子は則ち気一に志に聴くのみ。又安んぞ気の志を動かすこと之れ有らん。何となれば則ち蹶く者は、心焉に在らざるを以ての故なり。恭敬なる人の如きは則ち決して此の躁失無し。況んや成徳の君子をや。趨るも亦常人に在りては則ち気其の事を為す。故に亦志を動かす。然れども大人君子は千軍万馬の中に在りて、馳騁出入す。此れ皆趨るなり。而して理に本づき、志より発して、以て其の気を使ふ。故に気の志を動かすこと無し。居処飲食視聴言動、皆心其の節宣の宜しきに適ひ、其の邪正の弁を厳にするは、即ち是れ虞廷精一の学なり。

現代語訳

孟子の言う「志が専一であれば気を動かし、気が専一であれば志を動かす。いま、つまずく者、走る者は気である。それがかえってその心を動かすのだ」(『孟子』公孫丑上)について、象山先生(陸九淵)はこう説いた。「志が専一で気を動かすのは論じるまでもない。ただ気が専一で志を動かすというのは、まだ人に疑いを残させる。孟子はさらに、つまずいたり走ったりすると心が動くことでこれを明らかにした。それで疑いはなくなるはずだ。壹とは専一である。志はもとより気の統率者である。しかし気が専一になると、気もまた志を動かす。だから孟子はただ志を保てと言うだけでなく、さらに気を荒らすなと戒めたのである。住まいや飲食を、ほどよく節して通わせる宜しさにかない、見る・聴く・言う・動くことについて邪正の区別を厳しくするのは、みな気を荒らさない工夫である」。私の考えでは、学ぶ者で志と気を両方から支え合う工夫がない者は、玄妙空虚に陥らなければ、必ずばらばらになる。だから工夫はこのようでなければならない。しかし徳の成った君子は、気がひたすら志に従うだけである。どうして気が志を動かすことがあろうか。なぜなら、つまずくのは心がそこにないからである。恭しく敬む人には決してこのような慌ただしい過ちはない。まして徳の成った君子ならなおさらだ。走ることも、普通の人の場合は気がその事をするので、志をも動かす。しかし大人君子は千軍万馬の中を駆けめぐり出入りする。これはみな走ることである。しかし理にもとづき、志から発して、その気を使う。だから気が志を動かすことはない。住まい・飲食・見る・聴く・言う・動くことにおいて、みな心がほどよく節して通わせる宜しさにかない、邪正の区別を厳しくすること、それがすなわち虞の朝廷の「精一」(『書経』大禹謨の「惟れ精惟れ一」)の学である。

解説

『孟子』公孫丑上の「志壹なれば気を動かし、気壹なれば志を動かす」について、陸九淵の解を引く。志は気の帥だが気が偏れば志も揺らぐから、住まいや飲食を節し、視聴言動の邪正を厳しくして気を暴さないことが工夫だという。中斎は、志と気を両方から支える工夫を欠けば玄虚か支離に陥ると言い、ただし徳の成った君子は千軍万馬の中でも気が志に従うと述べる。睡眠や食事や生活習慣が判断や意志に影響するという指摘は現代人にも切実で、志を保つために体調と言動を整えることの意味を教える。

この章句が説くこと

志気孟子陸九淵修己精一

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