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洗心洞箚記 / 卷上・第六十條

聽訟吾猶人也者、周官司寇所云、五聲以之聽獄訟、求民情、聖人與官吏之有才能者無異矣、而無情者、不得盡其辭、大畏民志者、民之不仁者飾以仁、不敬者飾以敬、不孝者飾以孝、不慈者飾以慈、不信者飾以信、其餘不善也者、各飾以善、而民之仁者誣以不仁、敬者誣以不敬、孝者誣以不孝、慈者誣以不慈、信者誣以不信、其餘善也者、皆誣以不善、此卽訟端之所由起也、故聖君誠意以明仁敬孝慈信之德而臨民焉、譬如懸明鏡應物來、物妍媸安逃其照、故民先感其心、不得訟以盡其虛誕之辭、令大畏其心志、而有恥且格、虞芮之訟於文王、是其證也、而至如此則不仁者改爲仁、不敬者改爲敬、不孝不慈者改爲孝慈、不信者改爲信、而仁者不誣之、敬者不誣之、孝慈者不誣之、信者不誣之、而仁化興於下、此豈非聖君誠意之效乎、決非官吏所及也、是故雖齊治平、皆以誠意爲本、故大學結上文數節、重曰此謂知本、其旨深矣哉、而謂釋本末、昔賢旣駁之、其言是也、

新字:聴訟吾猶人也者、周官司寇所云、五声以之聴獄訟、求民情、聖人与官吏之有才能者無異矣、而無情者、不得尽其辞、大畏民志者、民之不仁者飾以仁、不敬者飾以敬、不孝者飾以孝、不慈者飾以慈、不信者飾以信、其余不善也者、各飾以善、而民之仁者誣以不仁、敬者誣以不敬、孝者誣以不孝、慈者誣以不慈、信者誣以不信、其余善也者、皆誣以不善、此即訟端之所由起也、故聖君誠意以明仁敬孝慈信之徳而臨民焉、譬如懸明鏡応物来、物妍媸安逃其照、故民先感其心、不得訟以尽其虚誕之辞、令大畏其心志、而有恥且格、虞芮之訟於文王、是其証也、而至如此則不仁者改為仁、不敬者改為敬、不孝不慈者改為孝慈、不信者改為信、而仁者不誣之、敬者不誣之、孝慈者不誣之、信者不誣之、而仁化興於下、此豈非聖君誠意之効乎、決非官吏所及也、是故雖斉治平、皆以誠意為本、故大学結上文数節、重曰此謂知本、其旨深矣哉、而謂釈本末、昔賢既駁之、其言是也、

書き下し

訟を聴くは吾猶ほ人のごときなりとは、周官の司寇の云ふ所、五声以て獄訟を聴き、民情を求むるにて、聖人と官吏の才能有る者と異なる無し。而して情無き者は、其の辞を尽くすを得ず。大いに民志を畏れしむとは、民の不仁なる者は飾るに仁を以てし、不敬なる者は飾るに敬を以てし、不孝なる者は飾るに孝を以てし、不慈なる者は飾るに慈を以てし、不信なる者は飾るに信を以てし、其の余の不善なる者は、各々飾るに善を以てす。而して民の仁なる者は誣ふるに不仁を以てし、敬なる者は誣ふるに不敬を以てし、孝なる者は誣ふるに不孝を以てし、慈なる者は誣ふるに不慈を以てし、信なる者は誣ふるに不信を以てし、其の余の善なる者は、皆誣ふるに不善を以てす。此れ即ち訟端の由りて起こる所なり。故に聖君は意を誠にして以て仁敬孝慈信の徳を明らかにして民に臨む。譬へば明鏡を懸けて物の来たるに応ずるが如し。物の妍媸安んぞ其の照らすを逃れん。故に民先づ其の心に感じ、訟へて以て其の虚誕の辞を尽くすを得ず、大いに其の心志を畏れしめて、恥有りて且つ格る。虞芮の文王に訟ふる、是れ其の証なり。而して此の如きに至れば則ち不仁なる者は改めて仁と為り、不敬なる者は改めて敬と為り、不孝不慈なる者は改めて孝慈と為り、不信なる者は改めて信と為る。而して仁なる者は之を誣ひず、敬なる者は之を誣ひず、孝慈なる者は之を誣ひず、信なる者は之を誣ひず。而して仁化下に興る。此れ豈に聖君の誠意の效に非ずや。決して官吏の及ぶ所に非ざるなり。是の故に斉治平と雖も、皆誠意を以て本と為す。故に大学上文の数節を結びて、重ねて此を本を知ると謂ふと曰ふ。其の旨深いかな。而して本末を釈すと謂ふは、昔賢既に之を駁す。其の言是なり。

現代語訳

「訴えを聴くことは、私も人並みである」(『論語』顔淵、『大学』)とは、『周礼』司寇に言う、五つの声(言葉・顔色・息・耳・目)で獄訟を聴いて民の実情を求めることであって、聖人も才能ある官吏と変わりがない。そして(『大学』の)「実情のない者はその言葉を尽くせない。大いに民の心を畏れさせる」とは、こういうことである。民のうち不仁な者は仁で飾り、不敬な者は敬で飾り、不孝な者は孝で飾り、不慈な者は慈で飾り、不信な者は信で飾り、その他の不善な者もそれぞれ善で飾る。そして民のうち仁な者を不仁だと偽って訴え、敬な者を不敬だと、孝な者を不孝だと、慈な者を不慈だと、信な者を不信だと偽って訴え、その他の善な者もみな不善だと偽って訴える。これが訴えの起こるもとである。だから聖君は意を誠にして仁・敬・孝・慈・信の徳を明らかにして民に臨む。たとえば明るい鏡を懸けて物が来るのに応じるようなもので、物の美醜がどうしてその照らしから逃れられようか。だから民はまずその心に感じ入り、訴えて虚偽の言葉を尽くすことができず、大いにその心をおそれさせられて、恥を知り、しかも正しくなる。虞と芮の君が文王のもとに訴えに来た(が、周の民の譲り合うさまを見て恥じて帰った)のがその証拠である。こうなれば、不仁な者は改めて仁となり、不敬な者は敬となり、不孝不慈な者は孝慈となり、不信な者は信となる。そして仁な者を偽って訴えず、敬な者を、孝慈な者を、信な者を偽って訴えない。こうして仁の感化が下に興る。これこそ聖君の誠意の効果ではないか。決して官吏の及ぶところではない。だから家を斉え国を治め天下を平らかにすることも、みな誠意を本とする。だから『大学』は上文の数節を結んで、重ねて「これを本を知ると謂う」と言った。その趣旨は深い。これを本末の解釈とするのは、昔の賢者がすでに反駁しており、その言葉は正しい。

解説

『大学』の「訟を聴くは吾猶ほ人のごとし、必ずや訟無からしめんか」の章を論じる。訴えを聴き分ける技術は聖人も有能な官吏も同じだが、訴えの元は、悪人が善を装い善人を悪と誣いることにある。聖君が誠意によって徳を明らかにし、明鏡のように臨めば、民は偽りの訴えを恥じて改まる。虞芮の君が周の譲り合いを見て恥じた故事がその証拠だという。長く訴訟を扱った中斎の実感がこもる。紛争処理の巧拙より、上に立つ者の誠実さが争いそのものを減らすという考えは、組織のトラブル対応の根本を示す。

この章句が説くこと

誠意大学訴訟明鏡本末文王

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