洗心洞箚記 / 卷上・第五十九條
呂新吾先生曰、見利向前、見害退後、同功專美於己、同過委罪於人、此小人之恒態、而丈夫之恥行也、吾常誦之鞭惰心、見利不肯前、見害不肯退、同功則歸之乎人、同過則受之乎己、惟是勉以行之、猶恐類於彼、況悠悠虛度者、未必能免之也、
新字:呂新吾先生曰、見利向前、見害退後、同功専美於己、同過委罪於人、此小人之恒態、而丈夫之恥行也、吾常誦之鞭惰心、見利不肯前、見害不肯退、同功則帰之乎人、同過則受之乎己、惟是勉以行之、猶恐類於彼、況悠悠虚度者、未必能免之也、
書き下し
呂新吾先生曰く、利を見れば前に向かひ、害を見れば後に退き、功を同じくすれば美を己に専らにし、過を同じくすれば罪を人に委ぬ。此れ小人の恒態にして、丈夫の恥づる行ひなりと。吾常に之を誦して惰心を鞭うつ。利を見れば前むを肯ぜず、害を見れば退くを肯ぜず、功を同じくすれば則ち之を人に帰し、過を同じくすれば則ち之を己に受く。惟だ是れ勉めて以て之を行ふも、猶ほ彼に類せんことを恐る。況んや悠悠として虚しく度る者、未だ必ずしも之を免るる能はざらんや。
現代語訳
呂新吾先生(呂坤)は「利を見れば前に出て、害を見れば後ろに退き、功を共にすれば手柄を自分ひとりのものにし、過ちを共にすれば罪を人に押しつける。これは小人の常の姿であり、男子の恥ずべき行いである」と言った(『呻吟語』)。私はいつもこれを唱えて怠け心を鞭打っている。利を見ても前に出ず、害を見ても退かず、功を共にすれば人に帰し、過ちを共にすれば自分で引き受ける。ただこれを努めて行っていても、なおあの小人に似ることを恐れる。まして、のんびりと虚しく日を過ごす者は、必ずしもそれを免れることはできないだろう。
解説
自述でも手本に挙げた呂坤『呻吟語』の一節を引き、利に進み害に退き、功を独り占めし過ちを人に押しつけるのが小人の常態だという言葉を、中斎は常に唱えて自らを鞭打ったという。その逆、すなわち功は人に帰し過ちは自分で受けることを努めても、なお小人に似ることを恐れると言う。自分への厳しさがよく表れた条である。手柄は部下に、責任は自分に、というリーダーの基本を、毎日唱えて点検するほどの真剣さで行えているかを問われる。
この章句が説くこと
修己責任君子小人呻吟語呂坤
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