洗心洞箚記 / 卷上・第四十一條
強爲善者猶有之、自然爲善者絕無、而非自然爲善者、難締眞交矣、經事變而後知吾言之非誣也、陽明先生之致良知、爲知而不行者發之也、是救朱門末學之弊已矣、而不行而徒語良知、則非但其學者責之、雖塗之人誹笑宜矣、
新字:強為善者猶有之、自然為善者絶無、而非自然為善者、難締真交矣、経事変而後知吾言之非誣也、陽明先生之致良知、為知而不行者発之也、是救朱門末学之弊已矣、而不行而徒語良知、則非但其学者責之、雖塗之人誹笑宜矣、
書き下し
強ひて善を為す者は猶ほ之れ有り。自然に善を為す者は絶えて無し。而して自然に善を為す者に非ざれば、真交を締び難し。事変を経て後に吾が言の誣ならざるを知らん。陽明先生の致良知は、知りて行はざる者の為に之を発するなり。是れ朱門末学の弊を救ふのみ。而るに行はずして徒に良知を語れば、則ち但に其の学者之を責むるのみに非ず、塗の人と雖も誹笑すること宜なり。
現代語訳
無理に善をなす者はまだいる。自然に善をなす者はまったくいない。そして自然に善をなす者でなければ、真の交わりを結ぶことは難しい。事変を経験してのちに、私の言葉が偽りでないことがわかるだろう。陽明先生(王守仁)の致良知は、知っていて行わない者のために説き出されたものである。それは朱子門下の末流の学の弊を救うためにほかならない。それなのに行わずにただ良知を語るなら、その学派の学者が責めるだけでなく、道ゆく人が謗り笑うのも当然である。
解説
第四十一条は、努めて善を行う人はいても自然に善を行う人はおらず、そういう人でなければ真の交わりは結べない、それは事変を経て分かると言う。第四十二条は、陽明の致良知は知って行わない者のために説かれ、朱子学末流の弊を救うものだったのに、行わずに良知を語れば道行く人にも笑われると戒める。どちらも、善や良知が言葉でなく行いとして自然に出るかを問う。肩書きや理念を語る人ほど、普段の振る舞いで信頼が試されるという職場の現実にそのまま当てはまる。
この章句が説くこと
良知致良知知行合一陽明学善交わり
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