洗心洞箚記 / 卷上・第三十八條
孔子自稱素王則不可、而後人稱素王則無不可也、左丘明自稱素臣則不可、而後人稱素臣則無不可也、春秋之經、三代之典刑、而黜陟善惡之繩尺也、左氏之傳、上下之行迹、而照燭妖魔之業鏡也、只其繩尺也、治萬世天下焉、非素王而何、只其業鏡也、公當時邪正焉、非素臣而何、且如無傳則自天子諸侯至士大夫、邪心醜態、庶乎澌滅無聞矣、然則妖魔各逃照、而來世之人亦不知懲、故學者誠心讀其傳者、不得不起羞惡之心、然以邪心俗慮讀之則已反化妖魔、而業鏡爲其所垢蝕、失左氏之本旨益遠矣、
新字:孔子自称素王則不可、而後人称素王則無不可也、左丘明自称素臣則不可、而後人称素臣則無不可也、春秋之経、三代之典刑、而黜陟善悪之縄尺也、左氏之伝、上下之行迹、而照燭妖魔之業鏡也、只其縄尺也、治万世天下焉、非素王而何、只其業鏡也、公当時邪正焉、非素臣而何、且如無伝則自天子諸侯至士大夫、邪心醜態、庶乎澌滅無聞矣、然則妖魔各逃照、而来世之人亦不知懲、故学者誠心読其伝者、不得不起羞悪之心、然以邪心俗慮読之則已反化妖魔、而業鏡為其所垢蝕、失左氏之本旨益遠矣、
書き下し
孔子自ら素王と称すれば則ち不可なり。而して後人素王と称すれば則ち不可無きなり。左丘明自ら素臣と称すれば則ち不可なり。而して後人素臣と称すれば則ち不可無きなり。春秋の経は、三代の典刑にして、善悪を黜陟するの縄尺なり。左氏の伝は、上下の行迹にして、妖魔を照燭するの業鏡なり。只だ其の縄尺や、万世の天下を治む。素王に非ずして何ぞ。只だ其の業鏡や、当時の邪正を公にす。素臣に非ずして何ぞ。且つ如し伝無くんば則ち天子諸侯より士大夫に至るまで、邪心醜態、庶はくは澌滅して聞こゆる無からん。然らば則ち妖魔各々照を逃れて、来世の人も亦懲らすを知らず。故に学者誠心にて其の伝を読む者は、羞悪の心を起こさざるを得ず。然れども邪心俗慮を以て之を読めば則ち已に反つて妖魔と化して、業鏡其の垢蝕する所と為り、左氏の本旨を失ふこと益々遠し。
現代語訳
孔子が自分で素王(位なき王)と称するのはいけないが、後の人が素王と称するのは差しつかえない。左丘明が自分で素臣(位なき臣)と称するのはいけないが、後の人が素臣と称するのは差しつかえない。『春秋』の経は、夏・殷・周三代の法であり、善悪を退けたり進めたりする物差しである。『左氏伝』は、上下の人々の行いの跡であり、妖魔を照らし出す業の鏡である。その物差しだけで万世の天下を治める。素王でなくて何であろう。その業の鏡だけで当時の邪正を公にする。素臣でなくて何であろう。しかももし伝がなければ、天子・諸侯から士大夫に至るまでの邪な心や醜い振る舞いは、ほとんど消え去って伝わらなかっただろう。そうなれば妖魔はそれぞれ照らされるのを逃れ、後世の人も戒めることを知らない。だから学ぶ者が誠の心でその伝を読めば、羞じ憎む心を起こさずにはいられない。しかし邪な心や俗な思いで読めば、すでに自分のほうが妖魔と化し、業の鏡はその垢に蝕まれて、左氏の本旨からますます遠く離れる。
解説
この章句が説くこと
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荀子・不苟篇君子の心を養うは誠より善きは莫し。誠を致さば則ち它事無し。唯だ仁のみ之れ守と為し、唯だ義のみ之れ行と為す。心を誠にして仁を守れば則ち形れ、形るれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行なえば則ち理あり、理あれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち能く変ず。変化代わる代わる興る、之を天徳と謂う。天は言わずして人は高きを推し、地は言わずして人は厚きを推し、四時は言わずして百姓は期す。夫れ此れ常有るは、其の誠を至せる者を以てなり。君子の至徳は、嘿然として喩り、未だ施さずして親しみ、怒らずして威あり。夫れ此れ命に順うは、其の独りを慎む者を以てなり。善の道を為すや、誠ならざれば則ち独ならず、独ならざれば則ち形れず、形れざれば則ち心に作り、色に見れ、言に出づと雖も、民は猶お未だ従わざるが若し。従うと雖も必ず疑う。天地は大と為すも、誠ならざれば則ち万物を化する能わず。聖人は知と為すも、誠ならざれば則ち万民を化する能わず。父子は親と為すも、誠ならざれば則ち疏し。君上は尊と為すも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は、君子の守る所にして、政事の本なり。唯だ居る所にして其の類を以て至る。之を操れば則ち之を得、之を舎つれば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち軽し、軽ければ則ち独行す。独行して舎てざれば、則ち済る。済りて材尽き、長く遷りて其の初めに反らざれば、則ち化す。
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論語・八佾篇祭ること在るが如く。神を祭ること神在るが如し。子曰く、『吾、祭に与らざれば、祭らざるが如し。』
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