洗心洞箚記 / 卷上・第十七條
湯之夏臺、文之羑里、及文丞相之土室、繹其所以皆裕如晏如與平生不異之道、非他、其囹圄容身之虛乃太虛之虛、而居其宮室窓櫺之內亦無以異、故不狹又不陋、不憂又不懼、是其裕如晏如之所由然也、而要在於不失其心之虛也、人如不失吾心之虛、則何往而不廣大、何居而不安樂、而又何狹陋之有、何憂懼之爲、
新字:湯之夏台、文之羑里、及文丞相之土室、繹其所以皆裕如晏如与平生不異之道、非他、其囹圄容身之虚乃太虚之虚、而居其宮室窓櫺之内亦無以異、故不狭又不陋、不憂又不懼、是其裕如晏如之所由然也、而要在於不失其心之虚也、人如不失吾心之虚、則何往而不広大、何居而不安楽、而又何狭陋之有、何憂懼之為、
書き下し
湯の夏台、文の羑里、及び文丞相の土室、其の皆裕如晏如として平生と異ならざる所以の道を繹ぬるに、他に非ず。其の囹圄身を容るるの虚は乃ち太虚の虚にして、其の宮室窓櫺の内に居るも亦以て異なる無し。故に狭からず又陋しからず、憂へず又懼れず。是れ其の裕如晏如の由りて然る所なり。而して要は其の心の虚を失はざるに在り。人如し吾が心の虚を失はずんば、則ち何くに往くとして広大ならざらん。何くに居るとして安楽ならざらん。而して又何の狭陋か之れ有らん。何の憂懼か之れ為さん。
現代語訳
殷の湯王が夏台に、周の文王が羑里に、宋の文丞相(文天祥)が土牢に囚われたとき、みなゆったりと落ち着いて平生と変わらなかった。そのわけをたずねれば、ほかでもない。牢獄で身を容れている虚は太虚の虚であり、宮殿の窓の内にいるのと何も変わらない。だから狭くもなく卑しくもなく、憂えもせず恐れもしなかった。これがゆったりと落ち着いていられた理由である。要は心の虚を失わないことにある。人がもし自分の心の虚を失わなければ、どこへ行っても広大であり、どこにいても安楽である。どんな狭さ卑しさがあろうか、どんな憂い恐れがあろうか。
解説
この章句が説くこと
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