洗心洞箚記 / 卷上・第十六條
常人方寸之虛、與聖人方寸之虛同一虛、而氣質則淸濁昏明不可同年而語也、猶如貧人室中之虛、與貴人室中之虛同一虛、而四面牆壁、上下屋牀、則美惡精粗之不同也、而方寸之虛者、便是太虛之虛、而太虛之虛、便是方寸之虛也、本無二矣、畢竟氣質墻壁之也、故人學而變化氣質、則與聖人同者宛然編布照耀焉、無不包涵、無不貫徹、嗚呼、不變化氣質、而從事于學者、其所學將何事、可謂陋矣、
新字:常人方寸之虚、与聖人方寸之虚同一虚、而気質則清濁昏明不可同年而語也、猶如貧人室中之虚、与貴人室中之虚同一虚、而四面牆壁、上下屋牀、則美悪精粗之不同也、而方寸之虚者、便是太虚之虚、而太虚之虚、便是方寸之虚也、本無二矣、畢竟気質墻壁之也、故人学而変化気質、則与聖人同者宛然編布照耀焉、無不包涵、無不貫徹、嗚呼、不変化気質、而従事于学者、其所学将何事、可謂陋矣、
書き下し
常人の方寸の虚は、聖人の方寸の虚と同一の虚なり。而して気質は則ち清濁昏明、年を同じくして語るべからざるなり。猶ほ貧人の室中の虚と、貴人の室中の虚と同一の虚にして、四面の牆壁、上下の屋牀は、則ち美悪精粗の同じからざるがごときなり。而して方寸の虚なる者は、便ち是れ太虚の虚にして、太虚の虚は、便ち是れ方寸の虚なり。本と二無し。畢竟気質之を牆壁するなり。故に人学びて気質を変化すれば、則ち聖人と同じき者宛然として遍布照耀し、包涵せざる無く、貫徹せざる無し。嗚呼、気質を変化せずして、学に従事する者は、其の学ぶ所将た何事ぞや。陋と謂ふべし。
現代語訳
普通の人の方寸(心)の虚は、聖人の方寸の虚と同じ虚である。しかし気質のほうは、清濁・昏明が比べものにならない。ちょうど貧しい人の部屋の中の虚と、高貴な人の部屋の中の虚は同じ虚だが、四方の壁や上下の屋根や床は、美醜や精粗が同じでないようなものである。そして方寸の虚は太虚の虚であり、太虚の虚は方寸の虚であって、もともと二つではない。結局は気質がそれを壁で囲っているのである。だから人が学んで気質を変化させれば、聖人と同じものがありありと行きわたって輝き、包みこまないものはなく、貫き通らないものはない。ああ、気質を変化させずに学問に従事する者は、いったい何を学んでいるのか。浅はかと言うべきだ。
解説
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