洗心洞箚記 / 卷上・第十四條
人心歸乎太虛、亦自愼獨克己而入焉、如不自愼獨克己而入、則禪學虛妄、所謂毫釐千里、故心學者動誤之也、愼獨克己、雖如無兩功、易三百八十四爻、便是屬愼獨之工、禮三百三千、便是屬克己之工、然而眞愼獨則克己了、實克己則愼獨了、始無兩功、故三百八十四爻、禮之體也、三百三千、易之用也、體用一源、皆原於道也、夫道也者、太虛而已矣、故學而歸乎太虛、則人能事畢矣、
新字:人心帰乎太虚、亦自慎独克己而入焉、如不自慎独克己而入、則禅学虚妄、所謂毫釐千里、故心学者動誤之也、慎独克己、雖如無両功、易三百八十四爻、便是属慎独之工、礼三百三千、便是属克己之工、然而真慎独則克己了、実克己則慎独了、始無両功、故三百八十四爻、礼之体也、三百三千、易之用也、体用一源、皆原於道也、夫道也者、太虚而已矣、故学而帰乎太虚、則人能事畢矣、
書き下し
人心の太虚に帰するも、亦慎独克己よりして入る。如し慎独克己よりして入らずんば、則ち禅学の虚妄なり。所謂毫釐千里、故に心学者動もすれば之を誤るなり。慎独克己、両功無きが如しと雖も、易の三百八十四爻は、便ち是れ慎独の工に属す。礼の三百三千は、便ち是れ克己の工に属す。然り而して真に慎独すれば則ち克己し了り、実に克己すれば則ち慎独し了る。始めて両功無し。故に三百八十四爻は、礼の体なり。三百三千は、易の用なり。体用一源、皆道に原づくなり。夫れ道なる者は、太虚のみ。故に学びて太虚に帰すれば、則ち人の能事畢る。
現代語訳
人の心が太虚に帰るのも、慎独と克己から入るのである。もし慎独と克己から入らなければ、それは禅学の虚妄である。いわゆる「始めのわずかな違いが千里の差になる」であって、だから心学を学ぶ者はともすればこれを誤る。慎独と克己は、二つの工夫ではないようだが、『易』の三百八十四爻は慎独の工夫に属し、『礼』の三百の経礼・三千の曲礼は克己の工夫に属する。しかし本当に慎独すれば克己は済んでおり、実際に克己すれば慎独は済んでいる。それで初めて二つの工夫ではないとわかる。だから三百八十四爻は礼の本体であり、三百三千は易の働きである。本体と働きは一つの源から出て、みな道にもとづく。そもそも道とは太虚にほかならない。だから学んで太虚に帰れば、人のなすべきことは尽きる。
解説
この章句が説くこと
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