洗心洞箚記 / 後自述
予之不肖。奚足實得之。然向在仕路。於聽訟斷獄之間。一二發明虛景來。故曾所藏刻之洗心洞箚記。解太虛之妙。與所以歸乎太虛之工。不堪煩數。而反論及五倫亦罕何。此則以備乎篤信四敎及詩書諸儒之說故也。然五倫非太虛。則皆僞而已。太虛矣。則五倫各得其正。而道德貫其中。嘗竊質諸董子諸葛公等之群賢。雖其說如有小異。其於尊天也皆一也。故取其要語以載于卷末。乃明乎非臆斷之說也。
新字:予之不肖。奚足実得之。然向在仕路。於聴訟断獄之間。一二発明虚景来。故曽所蔵刻之洗心洞箚記。解太虚之妙。与所以帰乎太虚之工。不堪煩数。而反論及五倫亦罕何。此則以備乎篤信四教及詩書諸儒之説故也。然五倫非太虚。則皆偽而已。太虚矣。則五倫各得其正。而道徳貫其中。嘗窃質諸董子諸葛公等之群賢。雖其説如有小異。其於尊天也皆一也。故取其要語以載于巻末。乃明乎非臆断之説也。
書き下し
予の不肖、奚ぞ実に之を得るに足らん。然れども向に仕路に在りしとき、聴訟断獄の間に於て、一二虚景を発明し来る。故に曽て蔵刻する所の洗心洞箚記は、太虚の妙と、太虚に帰する所以の工とを解くこと、煩数に堪へず。而して反つて論じて五倫に及ぶこと亦罕なるは何ぞや。此れ則ち以て篤く四教及び詩書諸儒の説を信ずるに備ふるが故なり。然れども五倫も太虚に非ずんば、則ち皆偽りのみ。太虚ならば、則ち五倫各々其の正を得て、道徳其の中を貫く。嘗て窃かに諸を董子諸葛公等の群賢に質すに、其の説小異有るが如しと雖も、其の天を尊ぶに於ては皆一なり。故に其の要語を取りて以て巻末に載せ、乃ち臆断の説に非ざるを明らかにす。
現代語訳
不肖の私に、どうしてこれを本当に会得できようか。しかし以前、官途にあったとき、訴訟を聴き罪を裁く間に、太虚の光景を一つ二つ見いだした。だから以前に家塾に刻しておいた『洗心洞箚記』では、太虚の妙と太虚に帰る工夫とを、煩わしいほど何度も説いている。それなのに五倫(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道)について論じることがまれなのはなぜか。それは、篤く四教や『詩』『書』、諸儒の説を信じることでそれを補うつもりだからである。しかし五倫も太虚でなければ、みな偽りにすぎない。太虚であれば五倫はそれぞれ正しさを得て、道徳がその中を貫く。かつてひそかにこれを董子(董仲舒)や諸葛公(諸葛亮)らの群賢に照らしてみたところ、その説に小さな違いはあるようでも、天を尊ぶ点ではみな一つであった。だからその要となる言葉を巻末に載せ、これが私の勝手な臆断でないことを明らかにしたのである。
解説
この章句が説くこと
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