自警録 / 序(1)
とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼がある。もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。古の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。守ること約にして施すこと博きものは善道なり。君子の言は帯より下らずして道存す」と。 これを思えば道すなわち道徳はその性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人も守り得るものであるらしい。 わが邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修め得ぬ心地す。仁義礼智などとは斯道の人にあらざれば解し能わぬ倫理として、素人のあえて関せざる道理のごとくみなす風がある。これもそのはずであって、むかしは堅苦しき文字を借りて、聖人にも凡人にも共通なる考えを言い現す癖があった。これはただに儒学のみでなく、仏教においても同然で、今日もなお解き難き句あれば「珍聞漢」とか、あるいは「お経の様」なりという。また、かくのごときは独り本邦ばかりでない、西洋においても一時は解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排してラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊に陥りやすい。
書き下し
とかく道徳とか仁義とかいえば、高尚遠大にして、通常人の及ばざるところ、たまたま及ぶことあれば、生涯に一度か二度あって、専門的に修むる者にあらざれば、単に茶話の料か、講義の題として聞くもののごとく思い流すの懼がある。もちろん道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。しかしその効用と目的は日々の言行に現すほど、吾人の意識の中に浸み込ませるところにあると思う。古の賢人も道はここにありと教えた。なお賢人の曰うに、「言近くして旨遠きものは善言なり。守ること約にして施すこと博きものは善道なり。君子の言は帯より下らずして道存す」と。 これを思えば道すなわち道徳はその性高くしてその用低く、その来たるところ遠くして、その及ぼすところ広く、田夫野人も守り得るものであるらしい。 わが邦においては道徳に関する文字は漢語より成るもの多きがゆえに、学問なければ、道も修め得ぬ心地す。仁義礼智などとは斯道の人にあらざれば解し能わぬ倫理として、素人のあえて関せざる道理のごとくみなす風がある。これもそのはずであって、むかしは堅苦しき文字を借りて、聖人にも凡人にも共通なる考えを言い現す癖があった。これはただに儒学のみでなく、仏教においても同然で、今日もなお解き難き句あれば「珍聞漢」とか、あるいは「お経の様」なりという。また、かくのごときは独り本邦ばかりでない、西洋においても一時は解りきったことさえも、わざわざ自国の通用語を排してラテン語をもって、論説した時代もあった。薬も長きむずかしき名を付ければ効能多く聞こゆるの例によりて、ややもすると、今もこの弊に陥りやすい。
現代語訳
とかく道徳だの仁義だのと言うと、高尚で遠大なもので、普通の人の手の届かないところにあり、たまたま届くことがあっても一生に一度か二度、しかも専門に学ぶ者でなければ無理で、せいぜい茶飲み話の種か講義の題目として聞き流すものだ、と思われがちなのが気がかりです。たしかに道徳の思想は高尚で、その道理は遠大でしょう。けれどもその効用と目的は、日々の言葉と行いに現れるほど、私たちの意識の奥にしみ込ませるところにあると思います。昔の賢人も、道はここにあると教えました。賢人はまた言っています。「言葉が身近でありながら意味が深いものこそ、よい言葉である。守ることが簡単でありながら広く行き渡るものこそ、よい道である。君子の言葉は帯より下へは出ないほど身近でありながら、道がそこにある」と。 こう考えると、道、つまり道徳は、その性質は高くても用いどころは低く、源は遠くても及ぶ範囲は広く、田舎の農夫や無学の人でも守れるもののようです。 日本では道徳に関する言葉に漢語が多いため、学問がなければ道も修められないような気がします。仁義礼智などは、その道の専門家でなければ理解できない倫理で、素人が関わらない理屈のように見なされる風潮があります。それももっともで、昔は堅苦しい漢字を借りて、聖人にも凡人にも共通する考えを言い表す癖がありました。これは儒学だけでなく仏教でも同じで、今でも分かりにくい文句を「ちんぷんかんぷん」とか「お経のようだ」と言います。しかもこれは日本だけのことではありません。西洋でも一時は、分かりきったことさえ、わざわざ自国の通用語を避けてラテン語で論じた時代がありました。薬も長くて難しい名前をつけるほど効きめがありそうに聞こえるという例のとおり、今でもともすればこの弊害に陥りやすいのです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『大和俗訓』巻之四・心術下一人の心の内、道徳の至りて尊く、至りて楽むべき理あり。君子はこれを知りて、尊びたのしみて、外に求めず。小人はこれを知らず、徳をそこなひ、道を失ひて、これを尊びたのしまず。ただ俗楽の賤しきわざをのみ楽とし、利欲を専らとし、長くうれひ苦みて、楽を失ふ。人となるものは、此楽を知るを貴しとす。是を知らずんは、人となれるかひなかるべし。此楽を知らんとならば、まことの学問をよくつとめて其理を知るべし。
-
新語・本行夫れ人の色を好むは、脂粉の能く飾る所に非ず。大怒の威は、気力の能く行う所に非ざるなり。聖人は天威に乗じ、天気に合し、天功を承け、天容に象りて、与に功を為さずとせば、豈に難からずや。夫れ酒池は以て舟を運らす可く、糟丘は以て遠く望む可し。豈に財に貧しからんや。四海の権を統べ、九州の衆を主る、豈に武力に弱からんや。然れども功は自ら存する能わず、威は自ら守る能わざるは、貧弱に非ず、乃ち道徳の身に存せず、仁義の下に加わらざるなり。故に利に察かにして道に惛き者は、衆の謀る所なり。力に果にして義に寡なき者は、兵の図る所なり。君子は義に篤くして利に薄く、行いに敏にして言に慎み、□□□功徳を広むる所なり。故に曰く、「不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し」と。
-
『童子問』卷上又問ふ、後世の学問日に高遠に趨りて、論語の旨と相背馳する者は、何の故にして然るかと。曰く、高きに居る者は卑きを視る、故に其の言卑からざることを得ず。卑きに居る者は高きを視る、故に其の言高からざることを得ず。自然の符なり。是の故に道徳盛んなれば則ち議論卑く、道徳衰ふれば則ち議論高し。猶ほ権衡の物を量るに、其の軽重に随ひて互ひに相低昂するがごとし。道徳一分衰ふれば、則ち議論一分高く、道徳二分衰ふれば、則ち議論二分高し。道徳愈衰ふれば、則ち議論愈高し。議論愈高きに及ぶや、道徳蔑如たり。仏老の人倫を廃し、宋儒の中行を失ふ、是れのみ。人皆議論の高きを悦ぶことを知りて、其の実は道徳下衰するが故なることを知らず。孔門の学は、直ちに道徳に由りて行ひ、無益の論を為さず。猶ほ白日の中天にして、燭を秉るを待たざるがごとし。故に只だ孝弟忠信を言ひて足れり。孔子曰く、忠信を主とすと。曾子曰く、吾日に三たび吾が身を省みると。是れなり。学者当に此の意を識得して、而る後に論語を読むべし。後世の諸儒敢へて高論を為して、論語と相背馳するに至る者は、皆道徳下衰するが故なり。
-
『酔古堂剣掃』集豪・寂寞一時、淒涼萬古道德に棲守する者は、寂寞たること一時。 權變に依阿する者は、淒涼たること萬古。
-
『呻吟語』内篇・修身・道德の實を潛かに修む文名・才名・藝名・勇名は、人盡く讓り得過ぐ。惟だ是れ道德の名は、則ち妒む者眾し。文無く才無く藝無く勇無きは、人盡く謙り得起こる。惟だ是れ道德の名無きは、則ち愧づる者眾し。君子は道德の實を以て潛かに修め、道德の名を以て自ら掩ふ。
-
『論語と算盤』理想と迷信・道徳は進化すべきか道徳というものは、他の理学化学のように、だんだん進化して行くものであるか、つまり道徳は文明に従って進化すべきものであるかというのである。ちょっと了解し難い言葉であるが、前にも言うごとく、宗教信念をもって道徳を堅固にするがよいか、さなくとも論理の上から徳義心は維持出来るものであるというように、追々その解釈が進化し来たりはせぬか。けだし道徳という文字は、支那古代の唐虞の世より、王者の道というのがすなわち道徳の語原である。ゆえに道徳という文字はよほど古い。