洗心洞箚記 / 後自述
道之大原出於天。而由知德者鮮矣。則道德乃爲聖學之極致。而天之太虛又爲其原本。居可知也。然而中人已下。非有敎。則不能窺其極致原本。故孔門其敎有四。曰。文行忠信。其則乃詩書執禮。詩書執禮中有所以爲文行忠信之目焉。而要各從其性所近而入。先儒之所謂理只一件。人之根器不齊。宜從知識處入。則敎以文。宜從踐履處入。則敎以行。宜從盡己處入。則敎以忠。宜從孚物處入。則敎以信。猶造化之甄陶萬類。而隨物賦形云。因吾以爲文便是道德太虛之華也。行便是道德太虛之實也。忠與信便是道德太虛之質也。而道德太虛乃化爲詩書執禮也。故非離道德太虛而別有文行忠信也。故又非離道德太虛而別有詩書執禮也。
新字:道之大原出於天。而由知徳者鮮矣。則道徳乃為聖学之極致。而天之太虚又為其原本。居可知也。然而中人已下。非有教。則不能窺其極致原本。故孔門其教有四。曰。文行忠信。其則乃詩書執礼。詩書執礼中有所以為文行忠信之目焉。而要各従其性所近而入。先儒之所謂理只一件。人之根器不斉。宜従知識処入。則教以文。宜従践履処入。則教以行。宜従尽己処入。則教以忠。宜従孚物処入。則教以信。猶造化之甄陶万類。而随物賦形云。因吾以為文便是道徳太虚之華也。行便是道徳太虚之実也。忠与信便是道徳太虚之質也。而道徳太虚乃化為詩書執礼也。故非離道徳太虚而別有文行忠信也。故又非離道徳太虚而別有詩書執礼也。
書き下し
道の大原は天より出づ。而して徳を知る者に由る鮮し。則ち道徳乃ち聖学の極致為り。而して天の太虚又其の原本為ること、居ながら知るべし。然り而して中人已下は、教へ有るに非ずんば、則ち其の極致原本を窺ふ能はず。故に孔門其の教へ四つ有り。曰く、文行忠信。其の則は乃ち詩書執礼なり。詩書執礼の中に文行忠信為る所以の目有り。而して要は各々其の性の近き所に従ひて入る。先儒の所謂、理は只だ一件、人の根器は斉しからず。宜しく知識の処より入るべきは、則ち教ふるに文を以てす。宜しく践履の処より入るべきは、則ち教ふるに行を以てす。宜しく己を尽くす処より入るべきは、則ち教ふるに忠を以てす。宜しく物に孚する処より入るべきは、則ち教ふるに信を以てす。猶ほ造化の万類を甄陶して、物に随ひて形を賦するがごとしと云ふ。因りて吾以為へらく、文は便ち是れ道徳太虚の華なり。行は便ち是れ道徳太虚の実なり。忠と信とは便ち是れ道徳太虚の質なり。而して道徳太虚乃ち化して詩書執礼と為るなり。故に道徳太虚を離れて別に文行忠信有るに非ざるなり。故に又道徳太虚を離れて別に詩書執礼有るに非ざるなり。
現代語訳
道の大本は天から出る。しかし徳を知る者はまれである。つまり道徳こそが聖人の学の極致であり、天の太虚がさらにその根本であることは、居ながらにしてわかる。けれども中程度以下の人は、教えがなければその極致と根本をうかがうことができない。だから孔子の門には四つの教えがあった。文・行・忠・信である(『論語』述而)。その手本は『詩』『書』と礼を守ることであり、その中に文・行・忠・信となるための項目がある。要するに、各人がその性分の近いところから入るのである。先儒が言うには、理はただ一つだが人の素質は等しくない。知識から入るのがよい者には文を教え、実践から入るのがよい者には行を教え、自己を尽くすことから入るのがよい者には忠を教え、人と信を通わせることから入るのがよい者には信を教える。ちょうど天地の造化が万物を作り、物に応じて形を与えるようなものだ、と。そこで私は思う。文は道徳太虚の華であり、行は道徳太虚の実であり、忠と信は道徳太虚の質である。そして道徳太虚が姿を変えて『詩』『書』と礼になったのである。だから道徳太虚を離れて別に文行忠信があるのではなく、また道徳太虚を離れて別に『詩』『書』と礼があるのでもない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』後自述而して始め其の刻の成るや、諸を弟子に授け、又以て有志の人に贈るのみ。而して敢へて諸を世に公にせんと欲せざるなり。頃者書肆積玉圃来りて曰く、世既に洗心洞箚記有るを知る。故に間ま書肆に就きて以て之を購求せんと要むる者有り。願はくは諸を世に公にせよ。独り書肆利を得るのみならず、学人も亦当に必ず大いに益有るべしと。予因りて再び之を思ふ。其の世に示すは、固より素志に非ず。然れども世に示さずんば、則ち其の及ぶ所自ら広からず。及ぶ所広からずんば、則ち道徳太虚の微を覚らずして終はる者も、亦自ら少なからざらんか。同胞にして之を坐視するに忍びんや。是に於て幡然として改め、蔵刻の板を出だして以て之に与へ、又之に謂ひて曰く、汝等意に随ひて以て之を購ふ者に售れ。如し利を獲ること有らば、其の利を以て乃ち別に舶来の聖賢の書を翻刻し、却つて復た吾が輩に嘉恵せよ。則ち其の益を得るや、財貨に踰ゆること万倍ならんと。
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『格言聯璧』持躬類・何物か是れ我なる外物を以て言へば、功名富貴を論ずる無く、即ち四肢百骸も、亦た軀殼なるのみ。 何物か是れ我なる、此に於て信じ得て及べば、則ち世味淡然たり。 天地に補ひ有るを功と曰ひ、世教に關はる有るを名と曰ひ、學問有るを富と曰ひ、謙恥有るを貴と曰ふ、是れを功名富貴と謂ふ。爲す無きを道と曰ひ、欲無きを德と曰ひ、鄙陋に習ふ無きを文と曰ひ、曖昧に近づく無きを章と曰ふ、是れを道德文章と謂ふ。
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『弁名』學仁斎先生曰く、「学問は道徳を以て本と為し、見聞を用と為す。今人の専ら書冊を読み義理を講ずるを以て学問と為す者の比に非ず」と。殊に知らず、学とは先王の道を学びて以て徳を己に成すを求むるのみなるを。故に道徳の外、豈に它有らんや。何の本末か之れ有らん。且つ子路曰く、「何ぞ必ずしも書を読みて、然る後に学と為さん」と。則ち孔子は夫の佞者を悪む。今書冊を読むを以て非と為す。世の所謂道学先生、自ら此の俗態有り。豈に醜からずや。且つ所謂見聞を用と為すとは、子張の干禄を引く。是れ自ら禄を干むるの道なり、豈に学問の法ならんや。六経を舎てて諸を見聞に求むれば、其の肆然として自ら恣にせざる者幾ど希なり。
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『洗心洞箚記』後自述嗚呼、之を総ぶるに、忠信の人と雖も、然も学を好まざれば、則ち孔子の坊を潰決するに庶し。而るを況んや浮文冥行の人をや。況んや徒に詩書執礼を学ぶ者をや。而して其の好学の二字は、一つは則ち孔子自ら言ひ、一つは則ち顔子を称するに之を以てし、而して未だ嘗て之を其の余の人に許さず。則ち其の重きこと知るべし。是の故に人孔門の四教を奉遵して、以て詩書執礼に従事すと雖も、然も其の好学の訣を知らざれば、則ち将に其の性の近き所に従ひて入らんとして、却つて其の性の近き所に偏り、以て道徳太虚の微を窺ふを得ず、遂に浮文冥行忠信にして学を好まざるの窠臼に墜ちて、一生頭を出だし身を跳らすこと能はず。古往今来、其の人数ふるに堪へず。是れ豈に惜しむべからざらんや。故に後進者は、好学の訣を知らざるべからざるなり。
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