弁名 / 學
仁齋先生曰。學問以道德爲本。見聞爲用。非若今人專以讀書冊講義理爲學問者比焉。殊不知學者學先王之道以求成德於已耳。故道德之外。豈有它哉。何本末之有也。且子路曰。何必讀書。然後爲學。則孔子惡夫佞者。今以讀書冊爲非。世所謂道學先生。自有此俗態。豈不醜哉。且所謂見聞爲用者。引子張干祿。是自干祿之道。豈學問之法哉。舍六經而求諸見聞。其不肆然自恣者幾希。
新字:仁斎先生曰。学問以道徳為本。見聞為用。非若今人専以読書冊講義理為学問者比焉。殊不知学者学先王之道以求成徳於已耳。故道徳之外。豈有它哉。何本末之有也。且子路曰。何必読書。然後為学。則孔子悪夫佞者。今以読書冊為非。世所謂道学先生。自有此俗態。豈不醜哉。且所謂見聞為用者。引子張干禄。是自干禄之道。豈学問之法哉。舎六経而求諸見聞。其不肆然自恣者幾希。
書き下し
仁斎先生曰く、「学問は道徳を以て本と為し、見聞を用と為す。今人の専ら書冊を読み義理を講ずるを以て学問と為す者の比に非ず」と。殊に知らず、学とは先王の道を学びて以て徳を己に成すを求むるのみなるを。故に道徳の外、豈に它有らんや。何の本末か之れ有らん。且つ子路曰く、「何ぞ必ずしも書を読みて、然る後に学と為さん」と。則ち孔子は夫の佞者を悪む。今書冊を読むを以て非と為す。世の所謂道学先生、自ら此の俗態有り。豈に醜からずや。且つ所謂見聞を用と為すとは、子張の干禄を引く。是れ自ら禄を干むるの道なり、豈に学問の法ならんや。六経を舎てて諸を見聞に求むれば、其の肆然として自ら恣にせざる者幾ど希なり。
現代語訳
仁斎先生は言う。「学問は道徳を本とし、見聞を働きとする。今の人がもっぱら書物を読み、道理を講じることを学問とするのとは比べものにならない」と。だが、学問とは先王の道を学んで自分に徳を成そうとすることにすぎないのだと、まったく分かっていない。だから道徳のほかに何があろう。本と末の区別などあるものか。それに子路が「どうして必ずしも書物を読んでから学問とする必要があろう」と言ったとき、孔子はそういう口達者を憎んだ。いま書物を読むことを非とするのは、世のいわゆる道学先生にもともとある俗っぽい態度であり、なんと見苦しいことか。また「見聞を働きとする」というのに、子張が禄(俸給)を求める方法を尋ねた話を引いている。それはそもそも禄を求める道であって、どうして学問の方法であろうか。六経を捨てて見聞に求めれば、勝手気ままにならない者はほとんどいないだろう。
解説
この章句が説くこと
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『酔古堂剣掃』集法・貨財を積むの心を以て學問を積む貨財を積むの心を以て學問を積み、功名を求むるの念を以て道德を求め、子女を愛するの心を以て父母を愛し、爵位を保つの策を以て國家を保つ。
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『洗心洞箚記』後自述而して始め其の刻の成るや、諸を弟子に授け、又以て有志の人に贈るのみ。而して敢へて諸を世に公にせんと欲せざるなり。頃者書肆積玉圃来りて曰く、世既に洗心洞箚記有るを知る。故に間ま書肆に就きて以て之を購求せんと要むる者有り。願はくは諸を世に公にせよ。独り書肆利を得るのみならず、学人も亦当に必ず大いに益有るべしと。予因りて再び之を思ふ。其の世に示すは、固より素志に非ず。然れども世に示さずんば、則ち其の及ぶ所自ら広からず。及ぶ所広からずんば、則ち道徳太虚の微を覚らずして終はる者も、亦自ら少なからざらんか。同胞にして之を坐視するに忍びんや。是に於て幡然として改め、蔵刻の板を出だして以て之に与へ、又之に謂ひて曰く、汝等意に随ひて以て之を購ふ者に售れ。如し利を獲ること有らば、其の利を以て乃ち別に舶来の聖賢の書を翻刻し、却つて復た吾が輩に嘉恵せよ。則ち其の益を得るや、財貨に踰ゆること万倍ならんと。
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『洗心洞箚記』後自述道の大原は天より出づ。而して徳を知る者に由る鮮し。則ち道徳乃ち聖学の極致為り。而して天の太虚又其の原本為ること、居ながら知るべし。然り而して中人已下は、教へ有るに非ずんば、則ち其の極致原本を窺ふ能はず。故に孔門其の教へ四つ有り。曰く、文行忠信。其の則は乃ち詩書執礼なり。詩書執礼の中に文行忠信為る所以の目有り。而して要は各々其の性の近き所に従ひて入る。先儒の所謂、理は只だ一件、人の根器は斉しからず。宜しく知識の処より入るべきは、則ち教ふるに文を以てす。宜しく践履の処より入るべきは、則ち教ふるに行を以てす。宜しく己を尽くす処より入るべきは、則ち教ふるに忠を以てす。宜しく物に孚する処より入るべきは、則ち教ふるに信を以てす。猶ほ造化の万類を甄陶して、物に随ひて形を賦するがごとしと云ふ。因りて吾以為へらく、文は便ち是れ道徳太虚の華なり。行は便ち是れ道徳太虚の実なり。忠と信とは便ち是れ道徳太虚の質なり。而して道徳太虚乃ち化して詩書執礼と為るなり。故に道徳太虚を離れて別に文行忠信有るに非ざるなり。故に又道徳太虚を離れて別に詩書執礼有るに非ざるなり。
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『格言聯璧』持躬類・何物か是れ我なる外物を以て言へば、功名富貴を論ずる無く、即ち四肢百骸も、亦た軀殼なるのみ。 何物か是れ我なる、此に於て信じ得て及べば、則ち世味淡然たり。 天地に補ひ有るを功と曰ひ、世教に關はる有るを名と曰ひ、學問有るを富と曰ひ、謙恥有るを貴と曰ふ、是れを功名富貴と謂ふ。爲す無きを道と曰ひ、欲無きを德と曰ひ、鄙陋に習ふ無きを文と曰ひ、曖昧に近づく無きを章と曰ふ、是れを道德文章と謂ふ。
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