潜夫論 / 誌氏姓
衛之公族,石氏、世叔氏、孫氏、寧氏、子齊氏、司徒氏、公文氏、折(析)龜氏、公叔氏、公南氏、公上氏、公孟氏,將者亦常在棹寵為貴臣。及留侯張良,韓公族,姬姓也。秦始皇滅韓,良弟死不葬。良散家貲千萬,為韓報仇,擊始皇於博浪沙中,誤椎副車。秦索賊急,良乃變姓為張,匿於下邳,遇神人黃石公,遺之兵法。及沛公之起也,良往屬焉。沛公使與韓信略定韓地,立橫陽君城為韓王,而拜良為韓信都者,司徒也,俗前音不正曰信都,或曰司徒,或勝屠,然其本共一司徒耳。後作傳者不知信都何因,疆(彊)妄生意,以為此乃代王為信都也。凡桓叔之後,有韓氏、言氏、嬰氏、禍餘氏、公族氏、張氏,此皆韓後姬姓也。昔周宣王亦有韓侯,其國也近燕,故詩雲:「普彼韓城,燕師所完。」
新字:衛之公族,石氏、世叔氏、孫氏、寧氏、子斉氏、司徒氏、公文氏、折(析)亀氏、公叔氏、公南氏、公上氏、公孟氏,将者亦常在棹寵為貴臣。及留侯張良,韓公族,姫姓也。秦始皇滅韓,良弟死不葬。良散家貲千万,為韓報仇,撃始皇於博浪沙中,誤椎副車。秦索賊急,良乃変姓為張,匿於下邳,遇神人黄石公,遺之兵法。及沛公之起也,良往属焉。沛公使与韓信略定韓地,立横陽君城為韓王,而拝良為韓信都者,司徒也,俗前音不正曰信都,或曰司徒,或勝屠,然其本共一司徒耳。後作伝者不知信都何因,疆(彊)妄生意,以為此乃代王為信都也。凡桓叔之後,有韓氏、言氏、嬰氏、禍余氏、公族氏、張氏,此皆韓後姫姓也。昔周宣王亦有韓侯,其国也近燕,故詩雲:「普彼韓城,燕師所完。」
書き下し
衛の公族は、石氏・世叔氏・孫氏・寧氏・子斉氏・司徒氏・公文氏・折(析)亀氏・公叔氏・公南氏・公上氏・公孟氏、将者も亦常に棹寵に在りて貴臣と為る。留侯張良に及び、韓の公族にして、姫姓なり。秦の始皇韓を滅ぼし、良の弟死すも葬らず。良家貲千万を散じ、韓の為に仇を報い、始皇を博浪沙の中に撃ち、誤りて副車を椎つ。秦賊を索むること急にして、良乃ち姓を変へて張と為し、下邳に匿れ、神人黄石公に遇ひ、之に兵法を遺らる。沛公の起つに及び、良往きて焉に属す。沛公与に韓信をして韓の地を略定せしめ、横陽君城を立てて韓王と為し、而して良を拝して韓の信都と為す。信都とは、司徒なり、俗に前音正しからず信都と曰ひ、或いは司徒と曰ひ、或いは勝屠と曰ふも、然れども其の本は共に一の司徒のみ。後に伝を作る者は信都の何に因るかを知らず、彊ひて妄りに意を生じ、以為へらく此れ乃ち代王の信都為るなりと。凡そ桓叔の後に、韓氏・言氏・嬰氏・禍余氏・公族氏・張氏有り、此れ皆韓の後の姫姓なり。昔周の宣王にも亦韓侯有り、其の国は燕に近し、故に詩に云ふ、「普彼の韓城、燕の師の完くせし所なり」と。
現代語訳
衛の公族は、石氏・世叔氏・孫氏・寧氏・子斉氏・司徒氏・公文氏・折(析)亀氏・公叔氏・公南氏・公上氏・公孟氏で、将となる者もまた、いつも棹寵にあって貴い臣となっていました。留侯の張良に及ぶと、彼は韓の公族で、姫姓です。秦の始皇が韓を滅ぼしたとき、良の弟が死にましたが葬りませんでした。良は家財千万を散じ、韓のために仇を討とうとして、始皇を博浪沙で襲い、誤って副車を鉄槌で打ちました。秦は賊を厳しく捜したので、良は姓を張に変えて下邳に身を隠し、神人の黄石公に出会って兵法の書を授かりました。沛公が決起すると、良は赴いてこれに従いました。沛公は韓信とともに韓の地を平定させ、横陽君の城を立てて韓王とし、良を韓の信都に任じました。信都とは司徒のことで、世間では以前の発音が正確でないため信都と言い、あるいは司徒と言い、あるいは勝屠と言いますが、もとはどれも同じ一つの司徒です。後に伝を作った者は、信都がなぜそう呼ばれるのかを知らず、無理にみだりな解釈を立て、これは代王の信都のことだと考えました。およそ桓叔の後には、韓氏・言氏・嬰氏・禍余氏・公族氏・張氏があり、これはみな韓の後裔の姫姓です。昔、周の宣王のときにも韓侯がおり、その国は燕に近かったので、詩に「広大なあの韓の城、燕の兵が築き上げたものだ」とうたわれています。
解説
この章句が説くこと
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『文武訓』武訓下一或武人、敵と我、両人戦ふ時のこころをよめる拙き歌あり。身は捨てつ心ばかりははふらさじ人のうごきを待ちてぞ打つべきいふ意は、敵と戦ふに臨まば、身は捨つべし。身をのがれんと思へば、心みだれおそれひるみて、敵に勝つべき力なし。されど、心ひとつは失ふべからず。敵と戦ふ時に、つねの如くにして心を動すべからず。我方よりみだりにかからず、こらへて早くうつべからず、人の動をまちて、其隙を見て早くうつべし。是敵に勝つの道なりといへり。一士となる者、平生は温厚和平にして、いかりをおさへ色をはげしくすべからず。みづから楽み人を愛すべし。されども、常に志をたもち気を養ひて、義理にいさむべし。変にあひては、平生の志を守りて、勇剛を失ふべからず。
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