説苑 / 立節
越甲至齊,雍門子狄請死之,齊王曰:「鼓鐸之聲未聞,矢石未交,長兵未接,子何務死之?為人臣之禮邪?」雍門子狄對曰:「臣聞之,昔者王田於囿,左轂鳴、車右請死之,而王曰:『子何為死?』車右對曰:『為其鳴吾君也。』王曰:『左轂鳴者工師之罪也,子何事之有焉?』車右曰:『臣不見工師之乘而見其鳴吾君也。』遂刎頸而死,知有之乎?」齊王曰:「有之。」雍門子狄曰:「今越甲至,其鳴吾君也,豈左轂之下哉?車右可以死左轂,而臣獨不可以死越甲也?」遂刎頸而死。是日越人引甲而退七十里,曰:「齊王有臣,鈞如雍門子狄,擬使越社稷不血食。」遂引甲而歸,齊王葬雍門子狄以上卿之禮。
新字:越甲至斉,雍門子狄請死之,斉王曰:「鼓鐸之声未聞,矢石未交,長兵未接,子何務死之?為人臣之礼邪?」雍門子狄対曰:「臣聞之,昔者王田於囿,左轂鳴、車右請死之,而王曰:『子何為死?』車右対曰:『為其鳴吾君也。』王曰:『左轂鳴者工師之罪也,子何事之有焉?』車右曰:『臣不見工師之乗而見其鳴吾君也。』遂刎頸而死,知有之乎?」斉王曰:「有之。」雍門子狄曰:「今越甲至,其鳴吾君也,豈左轂之下哉?車右可以死左轂,而臣独不可以死越甲也?」遂刎頸而死。是日越人引甲而退七十里,曰:「斉王有臣,鈞如雍門子狄,擬使越社稷不血食。」遂引甲而帰,斉王葬雍門子狄以上卿之礼。
書き下し
越甲斉に至る。雍門子狄之に死せんことを請う。斉王曰わく、「鼓鐸の声未だ聞かず、矢石未だ交えず、長兵未だ接せず、子何ぞ死を務むるや。人臣為るの礼か」と。雍門子狄対えて曰わく、「臣之を聞く、昔者王囿に田す。左轂鳴りて、車右之に死せんことを請う。而して王曰わく、『子何為れぞ死せんとするや』と。車右対えて曰わく、『其の吾が君に鳴りしが為なり』と。王曰わく、『左轂の鳴るは工師の罪なり。子何の事か之有らんや』と。車右曰わく、『臣工師の乗るを見ずして、其の吾が君に鳴るを見るなり』と。遂に頸を刎ねて死す。之有るを知るか」と。斉王曰わく、「之有り」と。雍門子狄曰わく、「今越甲至る、其の吾が君に鳴るや、豈に左轂の下ならんや。車右左轂を以て死す可くして、臣独り越甲を以て死す可からざらんや」と。遂に頸を刎ねて死す。是の日越人甲を引きて七十里を退きて曰わく、「斉王臣有り、鈞しく雍門子狄の如くんば、越の社稷をして血食せざらしめんと擬す」と。遂に甲を引きて帰る。斉王雍門子狄を葬るに上卿の礼を以てす。
現代語訳
越の軍が斉に攻め入った。雍門子狄はこれに殉じて死ぬことを願い出た。斉王は「まだ太鼓や鉦の音も聞こえず、矢石も交えず、長柄の武器もまだ交えていないのに、お前はなぜ死のうとするのか。それが臣下としての礼儀なのか」と尋ねた。雍門子狄は答えた。「私はこう聞いております。昔、王が狩猟の園で狩りをされた時、左の車輪の轂が音を立て、車右(護衛の武士)が死を願い出ました。王が『お前はなぜ死のうとするのか』と尋ねると、車右は『それが私の主君を(不吉に)驚かせたからです』と答えました。王は『左の轂が鳴ったのは工人の罪であって、お前に何の関わりがあろうか』と言いましたが、車右は『私は工人が乗っていたことは見ておりません。ただそれが私の主君を驚かせたのを見たのです』と言って、自ら首を刎ねて死にました。このようなことがあったのをご存知でしょうか」と。斉王は「あった」と答えた。雍門子狄は「今、越の軍が攻め入り、これがわが君を驚かせたことは、あの左の轂の音どころではありません。車右が左の轂の音のために死ぬことができたのなら、私だけが越の軍のために死ぬことができないなどということがありましょうか」と言い、そのまま自ら首を刎ねて死んだ。この日、越の軍勢は七十里も引き返して言った。「斉王には(雍門子狄のような)臣がいる。同じような者ばかりであれば、越の社稷を存続させることさえ危ういだろう」と。そして軍を引いて帰国した。斉王は雍門子狄を上卿の礼をもって手厚く葬った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
葉隠・聞書第二事によりては、主君の仰付(おおせつ)けをも、諸人の愛想(あいそ)をも尽(つ)かして、だだを踏廻(ふみまわ)りて打破(うちやぶ)つのけねばならぬ事あり。畢竟(ひっきょう)は、御為一偏(おんためいっぺん)の心入(こころい)れさえ出来(しゅったい)すれば、紛(まぎ)れぬものなり。何某(なにがし)、御前様附(ごぜんさまづき)にて御死去の時、上(かみ)より差留(さしと)めらるると申し候て、髪を剃り申されず、表より相附(あいつ)けられ候人さえ剃髪(ていはつ)仕り、無興(ぶきょう)に候故、附役(つけやく)共剃り申し候。斯様(かよう)の時などは、御意(ぎょい)にても差図(さしず)にても聞入(ききい)れず、上にも、御家老衆も御存じあるまじく候、八並武蔵(やつなみむさし)覚悟仕り候。上の御外聞(ごがいぶん)にて候えば、承引(しょういん)仕らずと申し切る筈(はず)となり。
-
葉隠・聞書第十一主君御大事の時、御命代(おいのちがわ)りに立たざるものは、一人もあるべからず。されども、兼ねて覚悟したる者は稀なり。継信(つぐのぶ)は奥州罷(まか)り立ち候時、妻子に向い、「我が君今度大軍に向わせ給えば、御命危き由の事なり。その時我等御身代りに立つべし。」と申し聞かせ、最後の暇乞(いとまご)いして罷り立ち候由。歴々(れきれき)の郎党(ろうとう)、命を惜しむ者あるべからずと雖(いえど)も、兼ねての覚悟仕りたる者一人もこれなく候ては危き事なり。
-
説苑・立節晋の献公の時、士有り、狐突と曰う。太子申生に傅たり。公驪姫を立てて夫人と為し、国憂い多し。狐突疾と称して出でず。六年、献公譖を以て太子を誅す。太子将に死せんとし、人をして狐突に謂わしめて曰わく、「吾が君老いたり、国家難多し。傅一たび出でて以て吾が君を輔けよ。申生賜を受けて以て死すとも恨みず」と。再拝稽首して死す。狐突乃ち復た献公に事う。三年、献公卒す。狐突諸大夫に辞して曰わく、「突太子の詔を受く。今事終われり。其の久しく乱世に生くるよりは、死して太子に報ゆるに若かず」と。乃ち帰りて自殺す。
-
葉隠・聞書第一楠木正成(くすのきまさしげ)兵庫記(ひょうごき)の中に、「降参(こうさん)と云ふことは、謀(はかりごと)にても君のためにても、武士のせることなり。」とあり。忠臣は斯(か)くの如(ごと)くあるべきこととなり。
-
葉隠・聞書第一敵を討ち取りたるよりは、主の為に死にたるが手柄なり。継信(つぐのぶ)が忠義に知られたり。
-
説苑・立節楚の平王、奮揚をして太子建を殺さしむ。未だ至らざるに之を遣る。太子宋に奔る。王奮揚を召し、城父の人をして之を執えて以て至らしむ。王曰わく、「言予が口より出でて、爾が耳に入る、誰か建に告げしや」と。対えて曰わく、臣之に告げたり。王初め臣に命じて曰わく、「建に事うること予に事うるが如くせよ」と。臣佞ならず、貳する能わず。初めを奉じて以て還り、故に之を遣る。已にして之を悔ゆるも、亦及ぶ無し、と。王曰わく、「而敢えて来たるは、何ぞや」と。対えて曰わく、「使いして命を失えば、召されて来たらず、是れ過を重ぬるなり。逃るるも入る所無し」と。王乃ち之を赦す。