潜夫論 / 誌氏姓
楚令尹建嚐問範武子之德於文子,文子對曰:「夫子之家事治,言於晉國,竭情無私,其祝史陳信不愧,其家事無猜,其祝史不祈。」建歸以告康王曰:「神人無怨,宜夫子之股肱五君,以為諸侯主也。」故劉氏自唐以下,漢以上,德著於世,莫若範會之最盛也,斯亦有修己以安人之功矣。武王克殷而封帝堯之後於社也。
新字:楚令尹建嚐問範武子之徳於文子,文子対曰:「夫子之家事治,言於晋国,竭情無私,其祝史陳信不愧,其家事無猜,其祝史不祈。」建帰以告康王曰:「神人無怨,宜夫子之股肱五君,以為諸侯主也。」故劉氏自唐以下,漢以上,徳著於世,莫若範会之最盛也,斯亦有修己以安人之功矣。武王克殷而封帝堯之後於社也。
書き下し
楚の令尹建嘗て範武子の徳を文子に問ふ。文子対へて曰く、「夫子の家は事治まり、晋国に言ひては、情を竭して私無く、其の祝史は信を陳べて愧ぢず、其の家事は猜ふこと無く、其の祝史は祈らず」と。建帰りて以て康王に告げて曰く、「神人怨み無し、宜なり夫子の五君を股肱とし、以て諸侯の主と為るや」と。故に劉氏は唐より以下、漢より以上、徳の世に著はるること、範会の最も盛んなるに若くは莫し、斯れ亦己を修めて以て人を安んずるの功有り。武王殷に克ちて帝堯の後を社に封ず。
現代語訳
楚の令尹の建は、あるとき範武子の徳について文子にたずねました。文子はこう答えました。「あの方の家は事がよく治まっており、晋国の政で発言するときは、真心を尽くして私心がなく、祝史は神に偽りなく述べて恥じることがなく、家の事にも疑いがなく、祝史は後ろめたい祈りをしません」。建は帰ってこのことを康王に告げ、「神も人も恨むことがありません。あの方が五代の君を股肱として支え、諸侯の盟主となったのも当然です」と述べました。こうして劉氏は、唐から下り漢から遡る間で、徳が世に現れたことでは範会が最も盛んで、これは己を修めて人を安んずる功があったからです。武王は殷に勝つと、帝堯の後を社に封じました。
解説
この章句が説くこと
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論語・公冶長篇子曰わく、吾未だ剛なる者を見ず。或る人対えて曰わく、申棖。子曰わく、棖は慾あり。焉んぞ剛ならんや。
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