潜夫論 / 思賢
國之所以存者,治也;其所以亡者,亂也。人君莫不好治而惡亂,樂存而畏亡。然常觀上記,近古已來,亡代有三,穢國不數。夫何哉?察其敗,皆由君常好其所亂而忘其所治,憎其所以存而愛其所以亡。是雖相去百世,縣年一紀,限隔九州,殊俗千里,然其已征敗跡,若重規襲矩,稽節合符。故曰:「雖有堯舜之美,必考於周頌;雖有桀紂之惡,必譏於版蕩。殷鑒不遠,在夏後之世。」
新字:国之所以存者,治也;其所以亡者,乱也。人君莫不好治而悪乱,楽存而畏亡。然常観上記,近古已来,亡代有三,穢国不数。夫何哉?察其敗,皆由君常好其所乱而忘其所治,憎其所以存而愛其所以亡。是雖相去百世,県年一紀,限隔九州,殊俗千里,然其已征敗跡,若重規襲矩,稽節合符。故曰:「雖有堯舜之美,必考於周頌;雖有桀紂之悪,必譏於版蕩。殷鑒不遠,在夏後之世。」
書き下し
国の存する所以の者は、治なり。其の亡ぶる所以の者は、乱なり。人君治を好み乱を悪み、存を楽しみ亡を畏れざる莫し。然れども常に上記を観るに、近古已来、亡代三有り、穢国数えず。夫れ何ぞや。其の敗を察するに、皆君常に其の乱るる所を好みて其の治まる所を忘れ、其の存する所以を憎みて其の亡ぶる所以を愛するに由る。是れ相い去ること百世、年を県つること一紀、九州を限り隔て、俗を殊にすること千里と雖も、然れども其の已に征せし敗跡は、規を重ね矩を襲ぬるが若く、節を稽え符を合わするが若し。故に曰く、「堯舜の美有りと雖も、必ず周頌に考う。桀紂の悪有りと雖も、必ず版蕩に譏る。殷鑑遠からず、夏后の世に在り」と。
現代語訳
国が存続するのは治まっているからで、国が滅びるのは乱れているからです。君主は誰でも治を好み乱を嫌い、存続を楽しみ滅亡を恐れます。それなのに、昔の記録を常に見ると、近古以来、滅びた王朝が三つあり、乱れた国は数え切れません。なぜでしょうか。その敗因を調べると、みな君主がいつも自分の国を乱すものを好んで国を治めるものを忘れ、国を存続させるものを憎み国を滅ぼすものを愛したことによるのです。たとえ百世離れ、年月が一紀隔たり、九州を隔て、習俗が千里も違っていても、すでに失敗した跡は、同じ定規とコンパスを重ねたように、割り符を合わせたようにぴたりと一致します。だから「堯舜のような美徳があっても、必ず周頌で確かめ、桀紂のような悪があっても、必ず版・蕩の詩で批判する。殷の戒めは遠くない、夏后の世にある」と言うのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『韓非子』初見秦第一臣敢へて之を言はん。往者斉は南のかた荊を破り、東のかた宋を破り、西のかた秦を服し、北のかた燕を破り、中は韓・魏を使ひ、土地広くして兵強く、戦へば克ち攻むれば取り、天下に詔令す。斉の清済濁河は、以て限りと為すに足り、長城巨防は、以て塞と為すに足る。斉は五戦の国なり、一戦克たずして斉無し。此に由りて之を観れば、夫れ戦ひは、万乗の存亡なり。
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『晏子春秋』問上・景公問天下之所以存亡晏子對以六說景公、晏子に問いて曰く、「寡人、不仁を持し、其れ義無きのみ。然らずんば、北面して夫子と義せん」と。晏子対えて曰く、「嬰は人臣なり。公曷為れぞ若き言を出だす」と。公曰く、「請う、終に天下の存亡する所以を問わん」と。晏子曰く、「縵密に能わず、蔍苴を学ばざる者は詘す。身以て人を用うる無く、而も又人の用と為らざる者は卑し。善人を戚しくする能わず、悪人を疏んずる能わざる者は危うし。交遊朋友、以て人を説ばしむる無く、又人を説ばしむる可能わざる者は窮す。君に事えて利を要め、大なる者は得ず、小なる者は為さざる者は餧う。道を修め義を立て、大なるは専らにする能わず、小なるは附くる能わざる者は滅ぶ。此れ以て存亡を観るに足れり」と。
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尚書・仲虺之誥弱きを兼(あわ)せ昧(くら)きを攻め、乱るるを取り亡ぶるを侮(あなど)り、亡ぶるを推(お)して存するを固くすれば、邦乃(すなわ)ち其れ昌(さか)んなり。
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史記 楚元王世家王純立ち、地節二年、中人上書して楚王の謀反を告ぐ、王自殺し、国除かれ、漢に入りて彭城郡と為る。趙王劉遂は、其の父は高祖の中子、名は友、謚して「幽」と曰ふ。幽王憂ひを以て死す、故に「幽」と為す。高后呂禄を趙に王とす、一歳にして高后崩ず。大臣諸呂呂禄等を誅し、乃ち幽王の子遂を立てて趙王と為す。孝文帝即位して二年、遂の弟辟彊を立て、趙の河間郡を取りて河間王と為す、[是れ]を文王と為す。立ちて十三年にして卒し、子哀王福立つ。一年にして卒し、子無く、後を絶ち、国除かれ、漢に入る。遂既に趙に王たること二十六年、孝景帝の時晁錯に坐して適を以て趙王の常山の郡を削らる。呉楚反き、趙王遂与に合謀して兵を起こす。其の相建徳・内史王悍諫む、聴かず。遂建徳・王悍を焼殺し、兵を発して其の西界に屯し、呉と倶に西せんことを待たんと欲す。北のかた匈奴に使ひし、与に連和して漢を攻む。漢、曲周侯酈寄をして之を撃たしむ。趙王遂還り、邯鄲に城守し、相距ぐこと七月。呉楚梁に敗れ、西する能はず。匈奴之を聞き、亦た止みて、肯へて漢の辺に入らず。欒布斉を破りて還り、乃ち兵を并せ水を引きて趙の城に灌ぐ。趙の城壊れ、趙王自殺し、邯鄲遂に降る。趙の幽王後を絶つ。太史公曰く、国の将に興らんとするや、必ず禎祥有り、君子用ひられて小人退く。国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴し。楚王戊をして申公を刑すること毋く、其の言に遵はしめ、趙をして防与先生に任ぜしめば、豈に簒殺の謀有りて、天下の僇と為らんや。賢人か、賢人か。質其の内に有るに非ずんば、悪んぞ能く之を用ひんや。甚だしいかな、「安危は令を出だすに在り、存亡は任ずる所に在り」と、誠なるかな是の言や。
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『呻吟語』外篇・治道・天命と人心天下の存亡は兩字に繫かる、天命と曰ふ。天下の去就は兩字に繫かる、人心と曰ふ。
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