清静経 / 神は清を好む
夫人神好清,而心擾之;人心好靜,而慾牽之。常能遣其慾而心自靜,澄其心而神自清。自然六慾不生,三毒消滅。所以不能者,為心未澄,慾未遣也。
新字:夫人神好清,而心擾之;人心好静,而慾牽之。常能遣其慾而心自静,澄其心而神自清。自然六慾不生,三毒消滅。所以不能者,為心未澄,慾未遣也。
書き下し
夫れ人神は清を好むも、心これを擾す。 人心は静を好むも、慾これを牽く。 常に能く其の慾を遣れば、心自ずから静かに、其の心を澄ませば、神自ずから清し。 自然に六慾生ぜず、三毒消滅す。 能わざる所以の者は、心未だ澄まず、慾未だ遣らざるが為なり。
現代語訳
人の精神は清らかさを好みますが、心がこれを乱します。 人の心は静かさを好みますが、欲がこれを引っ張ります。 いつも欲を取り除くことができれば、心はおのずから静かになり、心を澄ませば、精神はおのずから清らかになります。 そうなれば、六欲は自然に生じず、三毒も消えてなくなります。 それができない理由は、心がまだ澄んでおらず、欲がまだ取り除かれていないからです。
解説
『常清静経』の要となる章句で、「欲を遣れば心自ずから静か、心を澄ませば神自ずから清し」の句が含まれます。心を乱すのは外の出来事そのものより、それに引かれる自分の欲だという見立てです。六欲や三毒は仏教由来の語ですが、道教でも取り入れられました。欲を消すというより、引きずられない状態を目指すと読むと、現代にも通じます。目標や評価への執着が判断を濁らせることは多くあります。決断の前に、自分は何に引かれているかを点検することが、澄んだ判断への入り口になります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
神心慾遣欲澄心六慾
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