省諐録 / 第6〜10条
身雖在囹圄。心無愧怍。自覺方寸虛明。不異平日。人心之靈。與天地上下同流。夷狄患難。累他不得。亦可驗也。惟北闈年滿八十。飮食坐臥。非予不安。自予逮繫。吾問不通。動靜不知。其憂慮苦悶。當如何哉。一念及之。尤難爲情。然亦以理排遣。不至累心。吾不履此境。無此省覺。經一跌。長一知。果非虛語。振拔特立可也。激昂忿戾。不可也。心戒走作。心日秉。日操。亦是時時提撕。以理勝之之謂。
新字:身雖在囹圄。心無愧怍。自覚方寸虚明。不異平日。人心之霊。与天地上下同流。夷狄患難。累他不得。亦可験也。惟北闈年満八十。飲食坐臥。非予不安。自予逮繋。吾問不通。動静不知。其憂慮苦悶。当如何哉。一念及之。尤難為情。然亦以理排遣。不至累心。吾不履此境。無此省覚。経一跌。長一知。果非虚語。振抜特立可也。激昂忿戻。不可也。心戒走作。心日秉。日操。亦是時時提撕。以理勝之之謂。
書き下し
身は囹圄に在りと雖も、心に愧怍無し。自ら覺ゆ、方寸虛明にして、平日に異ならざるを。人心の靈は、天地上下と同流す。夷狄患難も、累はすこと他し得ず。亦驗すべきなり。惟だ北闈は年八十に滿ち、飮食坐臥、予に非ざれば安からず。予逮繫せられしより、吾問通ぜず、動靜知らず。其の憂慮苦悶、當に如何なるべきか。一念此に及べば、尤も情を爲し難し。然れども亦理を以て排遣し、心を累はすに至らず。吾此の境を履まずんば、此の省覺無けん。一跌を經れば、一知を長ず。果して虛語に非ず。振拔特立すべきなり。激昂忿戾は、不可なり。心は走作を戒め、心は日に秉り、日に操る。亦是れ時時提撕し、理を以て之に勝つの謂ひなり。
現代語訳
身は牢屋の中にあっても、心にやましさや恥じるところはありません。自分の胸の内は空しく澄んでいて、ふだんと変わらないと自覚しています。人の心の霊妙さは、天地の上下と同じように流れ通うものです。夷狄の地にあっても患難の中にあっても、この心を煩わせることはできません。これもまた確かめられることです。ただ、北闈(家の奥に住む年老いた親)は八十歳になり、飲食も起居も、私がいなければ落ち着かないのです。私が捕らえられてからは、便りも通じず、様子も分かりません。その憂いと苦しみはどれほどでしょうか。ひとたびそこに思いが及ぶと、とりわけ心を鎮めがたくなります。それでも、道理によって気持ちを払いのけ、心を煩わせるには至りません。私がこの境遇を経なければ、この気づきはなかったでしょう。一度つまずけば、一つ知が増すといいます。まことに偽りの言葉ではありません。気持ちを奮い立たせて抜け出し、独り立つのがよいのです。いきり立って怒り荒れるのは、よくありません。心が勝手に走り出すことを戒め、心を日々しっかり保ち、日々握りしめます。これもまた、折にふれて自分を引き起こし、道理で感情に打ち勝つという意味です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
-
『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
-
『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
-
『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
-
『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
-
『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る