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政談 / 學問の事

學問の事上の御世話にて昌平坂高倉屋敷にて儒者とも講釋すれとも、御旗本の武士に聽く人絕えてなし、只町人町醫者家中の士など少々承はる、此の輩のために計り御世話遊ばさるゝこと詮もなきことなり、是れ仕形宜からさる故上の思召と相違すると見えたり、第一稽古事は公役の稽古は人々せぬものなり、手前の信向なる師なれは付屆に物入りても、稽古をする心なれば稽古をするなり、是れ人情の必とすること也、其の上師は尊く弟子は卑きものなる故、師の方に權なければ敎はならぬものなり、右の如く講釋所へ役目に講釋をすることなれは師の方に權なし、是亦道理に背く故敎の益なきなり、

新字:学問の事上の御世話にて昌平坂高倉屋敷にて儒者とも講釈すれとも、御旗本の武士に聴く人絶えてなし、只町人町医者家中の士など少々承はる、此の輩のために計り御世話遊ばさるゝこと詮もなきことなり、是れ仕形宜からさる故上の思召と相違すると見えたり、第一稽古事は公役の稽古は人々せぬものなり、手前の信向なる師なれは付届に物入りても、稽古をする心なれば稽古をするなり、是れ人情の必とすること也、其の上師は尊く弟子は卑きものなる故、師の方に権なければ教はならぬものなり、右の如く講釈所へ役目に講釈をすることなれは師の方に権なし、是亦道理に背く故教の益なきなり、

書き下し

学問の事上の御世話にて昌平坂高倉屋敷にて儒者とも講釈すれとも、御旗本の武士に聴く人絶えてなし、只町人町医者家中の士など少々承はる、此の輩のために計り御世話遊ばさるゝこと詮もなきことなり、是れ仕形宜からさる故上の思召と相違すると見えたり、第一稽古事は公役の稽古は人々せぬものなり、手前の信向なる師なれは付届に物入りても、稽古をする心なれば稽古をするなり、是れ人情の必とすること也、其の上師は尊く弟子は卑きものなる故、師の方に権なければ教はならぬものなり、右の如く講釈所へ役目に講釈をすることなれは師の方に権なし、是亦道理に背く故教の益なきなり、

現代語訳

学問のことは、上の御世話で昌平坂・高倉屋敷において儒者たちが講釈をしているが、御旗本の武士で聴く人はまったくいない。ただ町人・町医者・家中の士(諸藩の武士)などが少々聴くだけである。この者たちのためだけにお世話なさるのは無意味なことである。これはやり方がよくないので、上のお考えと違ってしまっているのだと見える。第一に、稽古事は、公の役目としての稽古を人々はしないものである。自分が信じて慕う師であれば、付け届けに物入りがあっても、稽古をする心があるから稽古をするのである。これは人情の必ずそうなるところである。そのうえ、師は尊く弟子は卑しいものであるから、師の側に権威がなければ教えはできないものである。右のように講釈所へ役目として講釈をするのだから、師の側に権威がない。これもまた道理に背くので、教えの益がないのである。

解説

幕府が昌平坂や高倉屋敷で儒者に講釈をさせても、肝心の旗本は誰も聴きに来ないと徂徠は報告する。理由は二つある。人は公の役目としての稽古はしないが、自ら慕う師になら費用をかけてでも学ぶこと。そして師に権威がなければ教育は成り立たないのに、役目で講釈する儒者には権威がないことである。学びは強制や制度の器だけでは生まれない。現代の組織でも、義務として課した研修が形骸化するのは同じ理屈による。学ぶ側の自発性と、教える側への敬意をどう生み出すかを設計しなければならない。

この章句が説くこと

学問講釈師弟教育研修政談

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